荷物を抱えて自分の指定席に座った香子は、小さくため息をつくと、ぬるくなったお茶をペットボトルから飲んだ。そして、お茶をしまうと、スプリングコートのポケットに入れておいた淳の手紙を出した。何の柄も入っていない洋封筒に、白の飾り気のまるでない縦書きの便箋が5枚が入っていた。普段手紙なんか書かないから、お母さんからもらったのかな。手紙を見ながら、香子は小さく笑った。普通のボールペンで書かれた文章を読み始める。

『川島香子様

何から話したらいいのかわかりませんが、僕の考えていたことを書こうと思います。

まず、この1年、ありがとう。僕がはじめて好きになったのが君でよかった。

僕が見えている世界が、本当にあるものだとわかってうれしかった。それを共有してくれたのが香子でよかった。僕は香子と会ったから、実体の人と、僕にだけ見えている人の違いが、本当の意味で判ったと思う。一緒に見ているのに、香子に見えるものと僕に見えるものが違うのはさびしかったけれど、ほかの誰にも見えないけれど二人だけで見えるものがあって、うれしかった。

実は、あの事件のとき、僕は死体を隠したという人を、突き止めてしまいました。でも、僕はその人を責めることはできませんでした。その人が自分に都合よく嘘をついているのではないかも確認できませんでした。あの二人も、もういいと思っていたようです。でも、本当にそれでいいのか、わかりませんでした。香子はそれは正しくないというかもしれないし、死体を隠すだけでも多分何かの犯罪に当たるのだろうから、世間一般では正しくないのだろうと思います。でも、僕はそれを告発することができなかった。

それ以来、僕は自分に自信がなくなりました。自分が正しいと信じられなくなりました。だから、自分が正義だと思って、死んでしまった人の一方的な訴えを聞くことができなくなりました。

僕は、本当は、今でも死んだ人が見えます。でも、前のようにやさしい人だけが見えるわけではありません。怪我をした姿を見せ付けるようにしてくる人も時折います。僕に危害を加えてくるわけではないです。そういう人は、僕に復讐を求めることもあります。でも、僕は、それが正しいか、もう判断できない。

だから、もう僕は、誰の訴えも聞きません。見ないということもコントロールしています。目に映っても、それは見えていないことにして認識しない、という風に自分に言い聞かせる。見えていることに気づかないようにしているのです。だから、今も見えているというのと、見えていないというのと、僕の中では両方とも正しいのです。

わかりにくい手紙になりました、ごめん。

離れてしまうことは、仕方がないから、気にしないでください。僕は大丈夫です。部活も、香子の教えてくれた勉強も、がんばります。絶対、いい大人になりましょう。僕たちはそのために離れるのだから。

最後に、頼みがあります。不吉だといわないでください。

もし僕たちがもう一度会えないまま香子が死ぬときがきたら、必ず僕の前に来てください。僕は君を見ます。絶対見ます。できるだけ君より長生きするから、忘れないでください。

ではまた会いましょう。

                    水沢淳』

香子は、3度手紙を読んだ。読み終わってから、たたんで目をつむり、額に当てる。もう一度目を開ける。窓の外を見た。見える限りのものを見てみる。

電車は、丁度橋に差し掛かるところだった。今は何もない川岸に、昔あったいくつもの小屋がけが見える。その上の堤防からまだ3分咲きの今の桜が差し掛かっている。堤防がなかったころ、もっと広かったコスモスの咲いている川原に幾筋もに分かれた川面が見える。その向こうに今はもうない雪の降り積もった木造の橋が見える。橋の前にあった渡し場が見える。渡し場を覆うようにして氾濫する濁流が見える。そして、そして、そして。

香子はもう一度目を閉じた。

私はまだこの能力に疲れていない。私は見るべきものを見尽くしていない。見よう。そして、私にできることをしよう。淳がやめてしまったことを、私はやろう。

たとえ私と彼の、考えが違ってしまっていても。

電車は市の境に当たるトンネルに入っていった。