2015/01/01

初めに

ここは、某ちゃんばら戦隊物にはまった人のss置き場です。
何かありましたら拍手の方でぽちっとお願いします。

傾向は互いに理解はしてないが傍にいたら居心地が良いと思う赤黄。
いちゃいちゃべたべたはありません。でも構図的にはあるかもです。
赤黄だけではなく、殿が大好きなみんなも書いていければと思います。


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オンラインブックマークはおやめください。
また、リンクは不可とさせていただきます。

2010/03/24

雪、約束、指先の熱

 単純に、ダボダボがやりたかっただけとかもいうお話。
 ちなみに雪合戦はやってみたかったけどやれるほど積もったこと無いので想像でのみルール書いてたりしてます。確かそんなの……ですよね?



-雪、約束、指先の熱-

 あ、と思い手を伸ばした。
 ふわりと白い綿毛が見事に手のひらに着地したかと思えば、直前まで丸めていたため暖まっていたその熱で一瞬にして溶け消えてしまった。
 それでも構わずに手を伸ばし続けた。そうすると白く小さな塊が、つぎつぎと手のひらに、服の袖に、ことはの頭上へと降り注がれた。
 雪だ。
 それも、初雪だ。

「わぁっ……!」

 感嘆の声を上げ、置いてあった草履を履きことははさらに雪舞う庭へと踏み出した。
 今日は良く冷える日だ。思えば朝稽古の時も物凄く寒かった。
 ことはは嬉しそうに綿雪の中へと歩いて行った。すぐさま全身が雪まみれになった。見れば、朝稽古の時は何もなかった地面もいつの間にか真っ白に染まっていた。
 初雪でかつ大粒のぼた雪なのだ。積もるには十分な雪量だ。
 身体に付着した雪たちは、ことはの体温であっさりと溶けていった。構わずに雪を捕まえようと手を伸ばす。外気は程よく冷え込んでいて、当然ながら雪も冷たい。部屋の中に居て暖まっていた体温などあっという間に奪われて、上着を持ってこなかったことを少しだけ後悔した。
 けれど、白い息を吐く唇から洩れるのは嬉々とした声音で、

「積もるんやろか?」

 手のひらに乗った雪を見ての自問に、積もったらええなぁ、と期待を込めてまた白い息を吐いた。
 積もったらどうしよう。みんなで雪合戦とか、雪だるまを作ったりと色々できるだろうか。
 千明やったらおおはしゃぎしそうや、とその光景を思い浮かべ、ことははくすくすと笑った。それともガキやあるまいしと呆れるのだろうか。
 ううん、最初はそんな風に言っても、きっと一番はしゃぐのは千明だ。
 きっと、他のみんなも一緒にはしゃいでくれるだろう。
 最近では何をやるにもみんな一緒だ。
 いついかなる時をもすぐに動けるようにと、日々の鍛錬の間は勿論のこと、それ以外の自由時間でも気付けばみんな一つの部屋に居ることが多い。
 ご飯などは判るが、遊ぶ時やくつろぐ時だって気付けば同じ部屋に集まっているのだ。四六時中一緒に居るような感覚だった。
 最初ここに来た時を思えば考えられないぐらい一緒に居る。

「そういえば……今日は久しぶりにみんなバラバラやんな」

 丈瑠は朝稽古が終わってから用事があると源太の屋台寿司まで出て行き、流ノ介もそのお供について行った。茉子は寒いのが苦手らしく部屋に閉じこもっており、千明は部屋で漫画本を読み寝転んでいる最中だ。
 そんな休息もたまには良いだろうと、ことはも今日は一日のんびりと過ごすつもりだった。おやつを手に、篭りきっている茉子と一緒にファッション雑誌でも読もうと思っていた。
 縁側を歩いていく途中、降り始めた雪に心奪われるまでは。
 雪自体は珍しくはない。ことはが住んでいた山では以外に雪が多い地域に入り、一晩で驚くほど積もることなどよくあることだった。
 さらに言えば都心に近い場所ならばともかく、田舎の山に住んでいたのだ。雪かきや買い出しの困難さなど、よりいっそう雪の厳しさを飽きるほど身に染みて知っている生活をしてきた。
 だから知っている。雪は楽しいものだけではない。
 けれど、東京で、というよりも、この屋敷に来て見た雪は、これが初めてだった。
 だから嬉しい。嬉しくて、まだ積もってもない雪をもっと掴みたくて手を伸ばし、自分自身に降り積もせようとする。
 苦労することは多いけれど、好きなのだ。だからついはしゃいでしまう。
 雪の楽しい部分をめいいっぱい感じていたくて。

「ことは? 何をしているのだ?」

 ふいに掛かった声の方を見れば、帰宅してきたらしい流ノ介が目を丸くして縁側からことはを見ていた。

「あ、流さん。お帰りなさい。早かったんやね」
「あぁ、この雪だろう? 源太のところも早々に店仕舞いすると言ってな。屋敷で話をすることにしたんだ」

 そういう割には、丈瑠たちの姿が無い。言葉にせずとも伝わったのか、流ノ介は肩をすくめて見せた。

「私ひとり、先に帰らせられたんだ。殿は少し外を回ってから戻られるそうだ」

 もう帰られると思うぞと付け加える流ノ介が言うには、丈瑠は出かけたついでにと、各所の見回りを行っていたらしい。
 基本、見回りなどせずとも何か起これば各所に散りばめられている隙間センサーで事足りる。
 だが最近厳しくなってきている外道衆よりの襲撃を考え、自らの足と目で確認がしたくなったのだろう。
 流ノ介もそれに随行していたが、分散した方が効率が良いと途中で別れた。結果、先に戻ってくることになった。ショドウフォンで確認を取ったところ、丈瑠ももうすぐ屋敷に辿り着くらしい。
 その姿が想像に難くなく、殿様らしいなぁと思いくすくすと笑えば、流ノ介が襖障子を開きながら振り返った。

「あんまり長く外に居て風邪をひかぬようにするのだぞ? そうだ、黒子さんに暖かい物でも持ってきてくれるよう頼んでおこう」
「わぁ、流さんありがとう!」

 本気で喜んで言えば、なんのなんのと流ノ介はそのまま奥へと消えていった。
 雪は降り続けているし、空気も確かに冷たいが、はしゃぐ心からか身体は妙に暖かい。寒気など一切感じないため今すぐに暖かい物が欲しいとは思わなかったが、ひと段落落ち付いたころにはきっと寒いのだろう。
 気づかいに嬉しく思い、雪景色を振り返った。
 変わらず雪は降り注いできている。手を伸ばせば、ことはの小さな手の上へとても簡単に白く積み染めていってくれる。
 不思議だな、と思う。

「もう、そんな季節なんやね」

 時期にして約一年。
 志葉家からの招集に応じたのは、春を待つまだ寒い時期だった。冷えた風の中を切るようにして走ってここまで来たのを思い出す。
 この一年は、とても楽しかった。
 勿論、外道覆滅こそが自分たちの願いなのだから、一年も闘いが続いていることは良いことだとは言えないだろう。
 それでも、共に闘う仲間たちと、率いてくれる殿様と過ごした日々は毎日が楽しくて、嬉しかった。
 雪が終わりの季節から始まったこの闘いは、日々は、厳しく辛い闘いだけではなかった。
 だから、雪という季節の移ろいを感じさせるこの瞬間をこの上なく楽しいと感じているのだろう。
 鼻歌でも歌えそうな気持ちのまま雪を見上げていると、誰かが縁側を歩いてくるのが見えた。
 相手が気付くより早く、元気良くことはは声を掛けた。

「殿様! おかえりなさい」

 彼の人は、「あぁ」と返そうとした姿勢のまま何故か止まり、大きく目を見開いた。
 そして、

「ことは、何をしている?」

 先の流ノ介と全く同じ質問をした。
 訝しげに……というより判断に困ったように近づいてくるのに合わせ、ことはも小走りで縁側まで近寄った。

「殿様、雪です! 初雪ですっ」

 一年を振り返ってみた後だったからだろうか。妙にテンションが上がっていて、判って欲しくて声に勢いが付いていた。
 丈瑠はこれにもやや面食らったようで、とりあえずというように頷きを返し、

「初雪は判るが、お前、雪だらけだぞ?」

 全身に雪を付けた状態のことはにそう指摘した。
 まさかずっと庭に居たのか? と問われ、思わずことはは照れ笑いを浮かべた。
 返ってきたのは嘆息だ。呆れられたのかと思ったが、納得との半々といったところだったのだろう。
 見上げた主君の顔に浮かんでいたのは微苦笑で、その顔のまま「雪、好きなのか?」と問われる。
 大きく頷き返せば微苦笑は優しい物に代わって、次に「この調子でいけば夜には積もるかもな」と言ってくれた。
 積もる、という言葉に反応し、

「積もったら、みんなで雪合戦とかしませんか?」

 勢いのまま言えば、ことはの主君は憮然とした面持ちで反芻した。

「雪合戦?」
「はい! 雪玉を作って投げ合うんです。中ったら負けで、先に全部倒したチームが勝つんです!」

 いや、ルールは判るが……と丈瑠はまだ首を傾げている。
 その反応にはっとした。それから慌てて頭を下げた。

「あ……ごめんなさいっ。今はそんなこと言うてる場合とちゃうのに、一人で勝手に浮かれてしもて……!」

 今、ことはたちが志葉の屋敷に集まっているのは遊ぶためではない。
 使命を持って、ここに滞在している。
 いつ現れるか判らない外道衆を前に常に気を引き締めていなければならないというのに、なんと浮かれまくった発言をしてしまったのか。
 状況を甘く見ていると怒られても仕方がない自分の発言に、また失敗してしまったとことはは下唇を噛む。

「確かに、浮かれ過ぎだな」

 頭上から来た言葉に身を固くした。
 だが気づく。声には呆れは含まれているものの、たしなめる響きは一切含まれてはいない。
 そろりと顔を上げてみれば、丈瑠は雪積もる庭を眺めていた。
 欄干に片手を置いた姿で庭を見る主君の口元はどこか綻んでいて、積もっていく雪を見る目も何だか愉しそうだ。
 あの、と小さく出たことはの声に気づいた丈瑠は、庭から見上げてくる瞳に小さく笑って見せた。
 どこか愉快そうな響きをその低い声に乗せて問うてくる。

「怒られるとでも思ったのか?」
「いえっ……………あの、少し………」

 反射的に否定しようとして、嘘をつくわけにもいかないと思い小さく肯定した。
 すると頭上からは嘆息が聞こえてきて、丈瑠は「あのな、」と言い聞かせるようわずかに屈んだ。

「気を張り詰め過ぎるよりは良いだろ。むしろそうなった方が心配だ。いつ現れるか判らない相手にずっとぴりぴりしているより、少しぐらい息を抜いてる方が動きやすい。いつでも遊びのことばかり考えているようだったら、叱っているところだけどな。でもそんな心配いらないだろう。外道衆が現れたら即座に対応できるようになってきてる。お前も、皆も」

 と、信頼を現してくれているはずなのに、どこか悪戯気味に丈瑠は言った。継いで、降り注ぐ雪へと彼の人の視線が動く。

「俺も雪は嫌いじゃない」

 淡白い息を吐きながらつぶやかれた言葉を意味するのに要したのは数回の瞬き。
 それに、ことはは勢いよく顔を上げた。

「………じゃぁ、雪合戦、絶対しましょうね! 皆にも伝えときます、明日雪が積もって、何も無かったら皆で雪合戦するって!」

 ことはの言い方が可笑しかったのか、丈瑠はくつくつと笑っている。それから笑みを残したまま「判った」と頷き、

「積もればな。でもその前に風邪をひいたら意味が無いから、もう上がって来い」

 はいっ、と返事をして頷き縁側に上がった。
 嬉しくって跳ねるようにして登り上がり、雪を払い始める。
 部屋の中に入ってしまわぬよう、庭に向けてぱたぱたと身体に付いた雪を払っていると、頭部に重みが来た。
 え? と見れば、丈瑠が頭の雪を払ってくれたようだった。目が合い、「何だ?」と言いたげな疑問を浮かべた顔がそこにはあった。
 頭にまで積もっていたのだろうかと触れてみれば、確かに湿った感触がある。だから「ありがとうございます」と慌てて礼を言い頭を下げると、今度は何かが全身を包む感触がきた。
 包まれる感触には温かさと肩からずっしりとくる重みが同時にあるものだった。それは身体が冷え切っていたことが良く判る温もりがあって、反射的にかじかんでいた指がそれを掴んで引き寄せた。
 引き寄せてしまってから気付く。
 自分がとても冷えていたこと、そして引き寄せた物が何であるのかということに。

「殿様……? あの、これ……!」
「着てろ」

 丈瑠の上着だ。それも、つい今しがたまで着ていたものだ。
 十分に温められていたジャケットは小柄なことはの身体をすっぽりと覆ってしまう。袖も通しておけ、と言われるがままに通してみれば、そこは人より背が高い丈瑠が着ていた物。
 当然ながら肩は落ちているし、袖などは余るに余りすぎて、手はおろか指先すらも全く袖口に届いていなかった。
 何よりも、重たい。冬物のジャケットの、しかも男物だ。サイズ違いだからなんていう理由じゃない。
 だけど、とても暖かい。
 ことはが何とか指先を出そうと袖を引いていると、またもや頭上から噴き出す音が聞こえた。
 見上げれば、丈瑠が口元を隠し慌てて横を向いたところだった。どうやらあまりのサイズ違いの様子に笑われたらしい。
 丈瑠はわざとらしく咳払いをした後、

「返すのは後で良いから。ちゃんと温かくしてろ」

 はい、と返せば、よし、と言うように頷かれた。
 どこか満足そうにしている主君を見上げ、優しくされているんだということに頬が緩んでいく。

「じゃぁ、これ少しお借りします。部屋に戻って温まったら、返しに来ます」

 頷きが返される。そして部屋に戻ろうとする丈瑠の背中に向けてことはは言った。

「殿様も、お腹冷やさんよう気いつけて下さい」

 ずる、と珍しく丈瑠が踏み出した足を滑らせた。
 転ぶまでは行かなかったが、揺らいだ身体を立て直し、何とも訝しげな表情で丈瑠が振り返ってくる。

「あ、あのな……!」
「源さんから聞きました。殿様、小さい頃うんとお腹弱かったんやて。殿様も温かい飲み物とか、ちゃんと飲んでくださいね?」

 にこにこと、上気した頬でことはは続けた。見計らったかのように流ノ介が頼んでくれていた飲み物を、黒子が持って来てくれた。
 礼を言って受け取るついでに丈瑠の分もお願いすれば、了承の頷きを返し黒子は静かに引いていった。
 その間丈瑠は何か言いたそうな様子だったが、去って行く黒子と両手で湯気の立つカップを抱きしめて幸せそうにしていることはを見て、何も言うことなく終わった。
 ただ一言、「部屋に戻る」と言い去って行く主君にことはは頭を下げる。
 心なしか肩が落ち気味だったようなのは寒かったのだろうか。
 それはそうだろう。何せ雪が舞う庭先で、もう部屋に帰るところといえどもことはに上着を貸してくれたのだ。部屋までの道のりは寒いはずだ。
 できるだけ早く上着を返しに行こう、とことはは思った。そのためにはまず、言われたとおりちゃんと温まらなければ。
 何とか指だけ出した袖から、程よく温かいカップがじんわり沁みてくる。後はこれを飲めば一気に温まりそうだった。
 そうすれば、本当に早く上着を返せそうだなとひとり頷くのだが、

「………?」

 カップを握りしめてことはは小首を傾げた。
 なぜか今、残念な気持ちになったのだ。
 何が残念だと言うのだろうか。雪はしっかり堪能したし、正直に言えばまだ雪と戯れていたいが、これ以上防寒具を着ずに外に出れば確実に風邪を引いてしまう。それだけは勘弁だ。
 何より、明日になって雪が積もれば少し遊んでいいと許可が貰えた。
 それを想うだけで今日はもう十分だ。
 だというのに、一体何が残念だというのか。
 きゅ、と余りまくっている袖口を握りしめ、指先の温かさと、全身を包む暖かさに少し身を浸す。
 膝まですっぽり覆うジャケットは、こたつや半纏に包まった時のような幸せな温かさがある。
 まさかあの殿様が自分の物を貸してくれるだなんて誰が思うだろうか。
 暴君でもなければそこまで立場を誇示する人でもないけれど、出逢った最初から考えるとやはり驚くべきことだろう。
 だってあの人は、誰かを護るために身体を張ることが出来る人だけれど、誰かに手を差し伸べるようなことはずっと無かったはずだ。
 彦馬の里帰りの時に言っていたではないか。
 相手のために何かしてやりたいと思ったのはほとんど初めてのことなのだ、と。
 一日一日、きっと毎日、皆でいるから、変わって行ける。
 一日一日、毎日みんなお互いのことを知りたくて、教えてほしくて、もっと仲良くしたいと思っているから相手を想うことが出来る。
 きっと、これはその延長だ。今凄く温かいのは、彼の人の優しさの温もりだろう。
 優しくされていることが嬉しい。
 優しくしてくれる、貴方が嬉しい。
 ふわりと口元を綻ばせて、ことはは自室へと戻って行った。
 縁側の外ではまだ、雪が舞い続けている。


2009/12/07

宝箱の答え

二十二幕終了後より。三十四幕やらその後で出たネタを被らせながら。
書いている最中に本編ががんがん進んで行くのでそれに追いつくのに必死です。
実はこのネタ、二十二幕終了直後にはもう思いついていたとか誰が言えようか………。




- 宝箱の答え - 

 悲鳴のような、痛みを堪える小さな声が聞こえた。
 その声に振り向けば、自分の斜め後ろを歩いていた少女が顔をしかめて立ち止っていた。
 どうした? と声を掛けるのは、自分より周りの方が速い。

「ことは、どうかしたか?」
「な、なんもないっ」

 問いかけてくる千明に慌てたように返事をして、何事もないかのように歩き出す。
 だが彼らの数歩先前から振り返り見ていた丈瑠は、歩を進めるたびにことはの顔が僅かに引きつるのを見つけた。
 丈瑠が見ていたのに気付いたらしい。しまったというようにことはがまた驚くが、今度はお面でも張り付けたようにぎこちの無い笑みを浮かべ、何でもない風を装い始めた。
 上げられ、下ろされる足の運びはとても慎重だ。
 武道をたしなむ者として、ことはの基礎を重んじる姿勢は流ノ介に続くほどの顕著さがある。
 それが故に身に付いている足の運びは丁寧で、型がしっかりしている者ほど決して重心が揺らぐことのない綺麗な足運びが身についているものだ。
 だが、今はそれが崩れがちだった。
 ため息にも似たような息を吐き、何かを我慢しているらしい少女を丈瑠は呼び止めた。

「ことは、止まれ」

 目線より遥か下でふわふわと揺れていた黒髪が止まった。源太の頼みで“お嬢様”に扮装していた名残が見える化粧を施した顔が、不安と緊張を混ぜて見上げてくる。
 止まったことはの傍にはすぐに皆が追いつき、それぞれが困惑の表情でことはを囲んだ。

「えっと……殿様、どうなさりはったんですか?」
「足はどうしたんだ?」
「えっ? ……あの、……その………」

 珍しく言い淀む少女に今度は本当のため息をひとつ。
 家臣たちは「足?」と口々にことはの足元へ目を落としていた。皆が集まってしまったことにどうしよう、という空気が少女から伝わってくるが、無視をして丈瑠は周辺を見渡している。

「足って………あ、もしかしてことは」

 気付いた茉子が、即座に丈瑠と同じように周辺を見渡し始めた。やがて一点を指さす。

「丈瑠、あそこ! ことは、歩いていけそう?」

 なになに? と理解していない男どもを押しのけ茉子は道を開けさせる。向かう先にあったのは植木で、丁度腰を掛けられそうなほどの高さでレンガが積み重なっていた。
 茉子に腕を取られ、平気、と笑ってことはは足を踏み出していく。しかし、一歩目を下ろした段階で顔が痛みで引きつった。
 植木までは少し距離がある。この状況であそこまで歩かせるのは酷だろう。
 ならば、と丈瑠はことはの手を引く茉子を制し、細い腕を代わりに受け取った。

「丈瑠?」
「こっちの方が早いだろ」

 言葉と共に覚束ない足元をすくい上げれば小さな身体はあっさりと浮いた。軽い、と思う中、遅れて上げられた短い悲鳴に、共にまとめて横に抱え上げた。
 慌てたようにしがみついてくるのは背に回した腕で支え、抗議を無視して歩き出す。

「と、殿様っ! うち自分で歩きます!」
「痛いんだったら我慢するな。茉子」
「あ……う、うんっ」

 丈瑠の行動に呆気にとられていた茉子も小走りに後をついてくる。
 ぽかんとしている流ノ介たちは放って、植木までを目指す。ことはは不安なのか遠慮がちにしがみつきながらも茉子に助けを求めるよう必死に見ていたが、対する茉子はそんなことはを見て、丈瑠を見て、含むように笑うのみだ。

「“お付き”が随分板についたみたいじゃない?」
「かもな」
「ま、茉子ちゃんっ!」

 からかい半分で言った言葉に笑みを乗せて返されたものだから余計に面白い。
 抱えられたことはは一層どうしたらいいのか判らない顔をしてひたすら恐縮していたが、反面うつむき顔には朱が差している。
 合わせて「あらあら」と思い茉子はまた笑った。
 その声に気づいたらしく、頭上から主君が心底不思議そうに問うてくる。

「そんなにおかしいか?」
「おかしいっていうか……面白い、かな?」

 何か言いたそうな空気を感じる。そこがまたおかしく笑えば、主君の腕の中のことははわけが判らずに丈瑠と茉子を必死に見比べていた。
 そんなやり取りをしている間に目的地に辿り着き、丈瑠はゆっくりとことはをレンガの上に座らせた。
 地に足が付いたことでことははひっそりと安堵の息をつく。その顔はまだほんのりと赤く、しかし恥ずかしさにうつむくことよりも顔を上げて礼を言う方を先に選んだ。

「あ、ありがとうございます……!」
「痛いなら痛いと、変な我慢はするな。茉子、後は頼む」
「了解」

 茉子が見守る前、頷いて返される主君の言葉は苦笑と共にあった。
 怒りきれないんだろうなぁと思うとまた笑いがこみあげてくるが、それは恐らくここに居る全員がそうだろう。
 ことはは己の痛みに鈍いんじゃない。
 己の痛みが誰かの心配になるのを嫌がるのだ。
 人一倍我慢強い証拠なのだろうとも思うが、我慢していい時と我慢しなくていい時の境目をまだ見つけきれていないのだろうとも思う。
 それを、丈瑠をはじめとして皆が知っている。
 だから怒るという行動には移れず、こうして苦言めいたものになってしまう。
 なんていうこと口に出して丈瑠に言えば、本当に怒るというか拗ねるだろうなぁ、などと中りをつけながら、茉子はことはの靴と靴下を脱がした。
 外気にさらされた白い足。そこに赤く腫れた部分を見つけ、うわ、と思わず顔をしかめる。

「血が出てるじゃない。ことは、いつぐらいから痛かったの? この靴ずれ!」

 かかとと指の節と。
 両足そろえて合計五か所もの靴ずれに、丈瑠と茉子のため息が揃った。
 今更、戦闘によって起こされたものなんていうわけではないだろう。
 足と聞いてまさかとは思っていたが、案の定そのまさかだ。
 おそらくこれは“お嬢様”に扮装している間ずっと履いていた、慣れないヒールによって出来たもの。
 おろしたてで履き慣らしを一度もされていないそれでパーティに参加して、それだけでもかなりの重圧だったはずだ。普段ことはが履いているのは、身動きが取れやすいスニーカー。ヒールとは縁遠い生活を送っていて、いきなり一日中履かせられたのだから、足の負担は相当のものだったのだろう。
 それだけならばまだしも、途中外道衆が現れたためことははヒールを履いたまま走って現場へと駆けつけてきた。盛大に靴ずれを起こすタイミングがどこかと言えば、間違いなくここだ。
 変装の間は慣れない嘘で緊張して気付かず、そして戦闘の間も闘いに集中してことは自身が気付いていなかった。
 急に痛みの声を上げたことから考えれば、全てが終わった今、安堵してようやく気付いたということなのだろうが………。
 まったく、とでも聞こえてきそうな丈瑠のため息に茉子も同意する。
 こんなに酷いのに、どうして今の今まで気付いていなかったのか。
 これは我慢強いのではなく、鈍いのほうなのかなぁなんて思いつつ、けれどやはり怒る気にはなれなかった。ただため息だけが漏れる。

「これじゃ歩くの厳しいかも。応急処置はするけど、黒子さん呼んだ方が良いかもね」

 判った、と頷いた丈瑠はそのまま彦馬と連絡を取るため場を離れていく。
 さてと見送った茉子はポケットから数枚絆創膏を取り出し、傷となっている部分一つ一つにややきつめに貼り始める。これだけでも随分と違うはずだ。

「……ありがとう、茉子ちゃん」
「ううん、これくらい。でも丈瑠じゃないけど、痛い時は痛いってちゃんと言わなきゃ。痛いまま無理して屋敷まで帰ってたら、明日靴すら履けないとこだったわよ」

 反省してます、というようにことはは身を小さくした。
 痛いな、とは思っていたが、自分でもここまで酷くなっている物と思っていなかったのだ。改めて足の様子を見て自分でびっくりした。
 茉子は丁寧な手つきで赤くなっているか所の具合を見ては絆創膏を張り付けていってくれた。その隙にそっと丈瑠を見上げれば、ことはの主君は少し離れた場所でこちらに背を向けていた。ショドウフォンで彦馬と話をしているようだが、会話までは聞きとれない。
 ほぅ、と茉子にばれないように息を吐いた。
 いきなり足場が無くなったのには驚いたが、抱き抱え上げられたという事実にも十分驚くものだ。
 自分が小さいのは自覚しているが、あんなに軽々と持ち上げられるとは思ってもなかったのだ。
 ましてや相手は丈瑠だ。これが流ノ介や千明ならそんなに驚かなかっただろうが、そういうことをしそうにない丈瑠からやられたことに本気で驚いた。
 今日一日だけで、色んな顔の丈瑠を見た様な気がする。
 優しい人だというのは知っていたが、今日のように柔らかく接せられたのはさすがに今回が初めてだ。だからその距離に戸惑ってしまう。
 相手はそんなこと考えてはいなかっただろう。がちがちに緊張していたことはとは違い、丈瑠は常に自然体だった。どこに行っても威風堂々としている様子はさすがは殿様だとも思う。
 そう、きっとだからこそ、余計に雰囲気が柔らかく見えたのだろう。
 余裕のあったことはの主君は、余裕が無かったことはに気付き、自分だって慣れないお付きの仕事をこなしながらずっと気を配ってくれていた。その上ことはを励まし、褒めてくれた。
 そう思うと、胸にじんわりと暖かい物がこみ上げてくる。
 丈瑠といると時々起る。嬉しくって、くすぐったくて、形の見えない優しいそれ。
 それが、今日一日は沢山あった。頭を撫でられた時。笑いかけてくれた時。ことはを、認めてくれた時。
 お陰で今日は一段とその見えなかった形が見えかけていて、答えが判りそうでもあった。
 だけど。

(大事に想おてる、か……)

 義久は言った。ことはが、丈瑠のことを大事に想っていると。
 勿論その通りだ。
 丈瑠は小さい頃から聞いてきた志葉の殿様で、代々家ごと仕えてきた人で、そして守らねばならない人だ。彼がいなければ敵を倒すどころか封印することすら出来ないのだから、とても大事に決まっている。
 だが義久の言う「大事」は違う意味だ。義久がことはに好意を持ってくれたように、ことはが丈瑠を想っていると勘違いしていたのだ。
 忠義と思慕。それは、そんなに似ているものなのだろうか。
 首を傾げてみたところで、まだ恋を知らないことはには答えが出てこない。
 だからなのだろうか。義久にそう言われた時、強く反論できなかったのは。
 違うのだと、説明しようとした。それは勘違いだと。なのに、なぜか言葉は途中でしぼんでしまった。形が見えかけていた、胸に灯る暖かさのその正体、それも一緒に判らなくなってしまった。

(なんでやろ?)

 それは、やっぱり自分がまだ小さいからなのだろうか。
 考えてみたが答えは出なかった。ただ、明瞭な答えが得られなかったことに、なんだか残念な気持ちだけが広がっていく。

「ことは?」

 ぼんやりと丈瑠の背を見ていたことはは、茉子に呼ばれて慌てて足元に顔を向けた。

「まだどこか痛いところある?」
「ううん、もう平気や」

 笑顔で答えたところで、茉子の治療中に追いついてきた他の三人が覗きこんできた。

「ことは、大丈夫なのか?」
「ちょっと靴ずれ起こしてるだけよ、とりあえずの応急処置は……」

 したから、と心配顔の流ノ介に茉子が帰そうとしたところ、続く言葉を千明が遮った。
 
「なんだよ、靴ずれかよ。丈瑠が急にあんなことしたから驚いたじゃん、よっぽどやばいのかと思った!」
「ちょっと、千明、重たい!」

 屈んだ茉子の背に乗るように千明が身を乗り出してくる。
 だが抗議の声を上げるそこに、源太がさらに千明の上に乗りかかった。

「靴ずれかぁ~。そうだよなぁ、義久から渡されたもんだったけど、慣れてないと痛かっただろ? ことはちゃんスマン! 気付いてやれなくて!」
「源さんの所為やなかよ。うちがちゃんと歩き慣らしてへんのが、あかんかったんやし」

 あの、それよりも茉子ちゃんが……とことはが男二人を支えている茉子を見て汗を掻くが、源太は「くぅぅっ、ことはちゃんは良い子だなぁ!」などと言って聞いてはいなかった。
 結果、つぶされかけていた茉子が勢いよく立ち上がることで男二人は仲良く崩れ落ちた。
 わぁと崩れる男二人とそれに巻き込まれた流ノ介を見収めて、茉子は膝に付いた埃を払った。

「まったく。……ことは、黒子さんが来てくれるまで動いちゃだめよ?」
「うん」

 ごめん~と千明と源太が手を合わせて謝ってくるのを一瞥して、茉子は違う空気を吸いたくなって丈瑠の方へと足を向ける。丈瑠は彦馬への連絡が終わったらしく、ショドウフォンを閉じたところだった。

「来てくれるって?」
「ああ、すぐに手配してくれるそうだ。大丈夫だったか?」

 含み笑い。どうやら先ほど茉子がつぶされかけていたのを見ていたらしい。

「お陰さまで、鍛えてますから」

 平然と言ってやればまだ笑いの残った頷きが来た。それから奥で騒いでいる一同を見て、
 
「ことはは?」
「処置は終わったから。後はちょっと消毒でもしてもらえば大丈夫だと思うわ」

 そうか、と今度は安堵と吐息が交った声で丈瑠が小さく頷いた。

「甲斐甲斐しいじゃない」
「一応、俺の責任だからな」

 ? と茉子が見れば、丈瑠は罰が悪そうにぼそりと漏らした。

「偽物でも、“お嬢様”の世話をするのがお付きの役目だろう? ことはがずっと緊張してて痛みに気付いていなかったとはいえ、状態に気付いてやるのが俺の役目だったはずだ。その前に気付いてやれなかった。………他の奴なら、ちゃんと気付いてやれてたんだろうな」

 嘆息の混じった告白に茉子はまじまじと丈瑠を見上げた。
 そんなの気にする必要はないとか、普段はお世話される側だから気付かないのは当然だとか、その他にも色々と言葉は思い浮かんでくる。
 けれどどれも適切ではないような気がして、落ち込んでいるように見える主君の様子を少し残念に思った。
 丈瑠の背が高すぎて、頭を撫でてやりたいが手が届かないのだ。
 お付きなのに仕えるべき相手の様子に気づいてやれなかったなんて言っているが、主君なのに家臣の様子に気づいてやれなかった、とも丈瑠は言うだろう。言葉を変えてみただけで、どちらにしたところ丈瑠は身近な人がやせ我慢をすることを由としない。
 だから、どちらの立場であっても自分を責めてしまうのだ。きっと。
 あぁ残念、なんてわざとらしく胸中で大仰なまでに肩をすくめてから、彼のプライドが傷付かぬよう、茉子は微笑んだ。

「良いじゃない。今気付いたんだし。次からは気を付けてあげればそれで良いのよ」
「………そういうものか?」
「そういうものよ。誰かを大事に思うって、結構大変なのよ? お芝居で付け焼けばとはいえ、ちゃんと丈瑠はことはのこと大事にしようってしてたじゃない。その延長線が、今でしょ? まぁさすがに、いきなりのお姫様抱っこはびっくりしたけどさ」

 戸惑いの空気だけ寄こしてくる主君に、安心するよう笑って見せる。

「大事に思うっていうのは、ずっと相手のことを見ていてあげるってこと。……本来、傍に居るべき人でも気付かないことってあるもん。ましてやことはは、あたしたちに迷惑が掛からないようにって我慢してた。尚更気付くのなんて無理よ」

 胸に痛みが走るのは、まるでそれが自分自身に言い聞かせている言葉だからだろうか。
 相手のために用意した笑みを保つのが苦しくなって、ことはに目を向けるふりをして茉子は顔を逸らす。

「ちょっと遅くなったって、丈瑠はちゃんと気付いてあげられたんだから………それって、大事なことだと思う」

 言いわけだ。
 本当はその時に気付いてほしい。
 けれどもう、気付かれないで通り過ぎた自分は、かさぶたで蓋をした傷口を見ないふりで痛みを無いものとするより他にない。無い物ねだりをしたところで、傷は癒えないのだ。
 痛みは、その時に気付いてもらえないと治らない。
 傷口そのものはいつか塞がっても、放置された傷跡はいつまでも疼いて永遠に残り続けるのだから。
 置いて、捨てて行かれた自分のように。

「俺はそうは思わない」

 だから、言われた言葉に思わず振り返った。
 千明に小突かれていることはを見ながら丈瑠は言う。

「傷付いた後じゃ、間に合わないだろう。それがどれだけ痛いかなんて本人にしか判らないんだ。それなら、まだ痛みが浅い内に………酷くなってしまう前に、気付きたい」
「え………」

 呆然と相手を見上げる。
 丈瑠の表情は唇を引き締めた良く見るそれで、目はまっすぐに前を向いている。
 力強く言われた言葉は己自身への誓いの独白のようでもあった。
 だから判る。揺らぎを感じない言葉は本心そのものだ。
 だから茉子の隣に立つこの人は、本気でそう思い、口にしてくれている。
 可能ならば、痛みを防いでやりたい、と。
 その言葉を聞いて、

(あ……………)

 湧き立つ気持ちは喜びなのか、苦しみなのか。
 ふいに泣きだしたくなる衝動に襲われて、慌てて茉子はうつむいた。
 顔を見られればばれるだろう。それこそ、足の痛みを我慢し続けたことはのように。
 は、と号泣のように盛れそうになる息を全て一度きりの吐息で殺し、拳を握った。
 幸い前を見ている丈瑠は気付いていないようで、だから、と力強い響きを残し言葉を続けてきた。

「次は、気付く。少しでも早く」

 今回は気付けなかった。相手からのサインを読みとるまで。
 今回はそれでもまだ間に合う範囲だった。でも、次も同じとは限らない。
 傷は放置すれば簡単に膿む。膿んだ傷は痛みをいつまでも引きずり、後々に支障を残していく。処置が遅ければ遅いほど、気付くのが遅れれば遅れるほど、それは取り返しのつかないものへと変貌していくのだ。
 例えそれが、取るに足らない小さな傷だとしても。
 だから次の失敗はしない。
 相手を、誰かを気遣うとは、そういうこと。
 この数カ月で何となく気付いてきている。自分の周りには、痛みを己の内にだけ抱え持ち、我慢してしまいそうな人たちが沢山いる。だから、次はその前に気付く。
 手を差し伸べるも放置するもそれからでいいのだ。どの方法が一番かなど、その時にならなければ判らない。
 けれどその痛みを共感するまではいかなくても、せめて気付く者でありたい。
 なぜなら、自分は彼らの傍に居る者なのだから。
 命を預けると、誓った相手。
 命を預かると、誓い交わした相手。

「そう」

 柔らかい肯定を茉子は返してくれた。何かを押し殺すかのように下を向いた彼女は、恐らく微笑んでいるであろう口調で呼びかけてくる。

「丈瑠」
「なんだ?」
「ありがと」

 何をだ、と尋ねようとしても、相手が下を向いていたので表情が判らず、尋ねる機会を失ってしまった。
 ただ微笑の気配は変わらずに漂っているので、理由は判らないが機嫌は良いのだろう。
 妙な照れくささを感じ、丈瑠はわざとらしく咳払いをした。

「もうそろそろ黒子が着くだろう。俺たちも引き上げるぞ」
「丈瑠はそのままことはについてなさいよ? 折角なんだから、最後までやりとおすのもいいんじゃない?」

 むぅ、と相手が考えるように眉間にしわを寄せた。
 別に置いていくつもりなどなかったのだろうが、改めて言われたことで今からの自分の行動に想う所が合ったのだろう。

「………歩けないことはに手を貸すのも、怪我の手当ても黒子がやるとおもうんだが………」

 俺は何をすればいいんだ、とぼそりと問われ、茉子は腰に手を当てた。
 無理やり引き上げた面(おもて)には涙の跡はない。むしろすがすがしいまでの微笑を張り付け、憮然とする主君に諭すように言う。

「そーいうときは、傍についていてあげるだけで良いの。それとも何? ことはを一人で帰す気?」

 一人じゃなくて黒子と一緒なんだが、と言いたかったが、茉子の剣幕がその発言を許してはいなかった。そういうものなのか、と何となく納得のいかない気持ちを抱え持ちながら、丈瑠は改めてことはを見た。
 今日一日で、随分と印象が変わった少女。
 何事にも懸命に努力する子だとは知っていた。我慢強く、粘り強い。何かをやり遂げるのに必要な物をちゃんと兼ね揃えている少女。
 欠点は、己自身に対する評価の低さだろう。
 小さい頃にいじめられていたということ、屋敷で見ていてもドジを良く踏むことから、自分は大したことないのだと思い込んでいる節がある。
 だから懸念していた。
 確かに少々のドンくささは目立つが、ことはの持つ素直さと、そのくせ時折発揮する諦めの悪さは一品物だ。それによって周りがどれだけ助けられているか、ことはは気付いていない。
 ことはに必要な物は自信。今のことはそのままで、十分人の役に立っていると、何の問題もないのだとことは自身が知ることが大切だと丈瑠は思っていた。
 そう思い個人の稽古スケジュールを任せたのだが、その必要はなかったのだと今日の一件で確認できた。
 誰かの意見に流されてしまいがちな子だと思っていた。でもそうではなく、丈瑠が変な手助けなどせずともことはは自分自身をちゃんと持っていた。ただほんの少し、自分よりも回りの気持ちを汲んでしまう、それだけのことだった。
 なんのことはない。ことははその中で、己自身がどうするべきかを自分で考えられる、立派な女性だ。
 女性、と呼ぶには少し語弊があるかもしれない。何分ことははまだ小さい。けれど女の子と呼ぶほど小さすぎるわけでもないはずだ。
 知らないことがまだまだ沢山ある。きっとことはには、丈瑠の知らない部分が沢山あるのだろう。
 勿論それはことはだけではない。流ノ介や茉子にだってあるし、千明と源太にもある。同じように、彼らだって丈瑠のことを知らない。
 本音を言えば、知られるのは怖い。でも、知りたいという欲求がある。知る限りは、こちらも知られるということだ。けれど今は、それを優先させたい。
 ことはに叩かれた頬をさする。思いのほか力強く叩かれたが、不快は全くなかった。むしろ嬉しくもあった。ここに残る痛みはことはの証明だ。丈瑠がことはの強さを知ったという代償のようなもの。
 撫でた頭の高さ。その際に嬉しそうに緩んでいた頬を思い出して、さすっていた手を口元に運び、丈瑠は茉子から笑みを見られることの無いよう隠した。
 悪くない。
 今の、自分の状態が。環境が。共にいる人たちが。
 それならば、少しだけ足並みを揃えていようと思った。せめてもう少し、彼らを知れるまで。ぎりぎりの所、自分が見せられる分まで。
 その果てで何を見るのか判らないけれど、きっと悪いことにはならないはずだ。
 口元を隠したまま、何やら盛り上がっている皆のところに戻る。座ったままのことはは丈瑠を見て、照れくさそうに笑っていた。
 その姿を微笑ましく思う。だから口元から手を離し、頷き返してやった。
 大丈夫だ、と。誰にともなくまるで自分自身に頷くように。
 そんな丈瑠の頷きを受けて、内心は知らずともことははまたほっと自分が安心するのが判った。
 ほんわりとした暖かさがまた、胸の内から湧き出してくる。
 これは何だろうか、と考えたが、やはり答えは出ない。
 今日一日、幻を見た。
 不思議な気持ちにさせてくれる、甘く優しい幻。幻という名の、見たことのなかった殿様の姿。
 でも知っている。本当は幻ではなく、全部本物だ。
 別人のように思えた主君の姿、それもちゃんと丈瑠の一部なのだ。
 ただ、まだ自分が知らなかっただけ。そしてたまたま今日、丈瑠がそれを少し見せてくれただけ。
 丈瑠は丈瑠だ。
 どこに行っても、どんな恰好をしていてもそれは変わらない。
 もし違う者に見えるとすれば、それは立場や状況などから決められることではなく、己自身が培ってきたものであり、そしてそれを見る人々の眼に映る姿だ。
 何も変わらないのだ。変わるはずもない。
 確かに、義久が言ったようにことはは丈瑠が大事だ。
 それは殿様だからという意味ではないと、ことはは丈瑠に言ったことがある。
 殿様だから守るんじゃない。失いたくないから守る。そう言ったのだ。
 その時の気持ちに嘘はなく、今でも本気でそう思っている。大事とはそういう意味。それは忠義とはまた違う「大事」。
 だから思う。
 この気持ちは恋ではないのだ。
 ならば何なのかと問われれば答えに窮してしまうが、それでもきっと違うものだろうとことはは思った。
 だって、丈瑠はどこまで行っても丈瑠なのだ。幻のように見えた人なんかじゃない。別人なんかじゃない。
 くれた言葉は全部丈瑠のもので、行動も全て丈瑠の内から出てきたもの。他の人ではありえないものだ。
 同じように、ことはだってことはだ。ことははことはとして、丈瑠から貰った言葉を受け止めた。
 だから、それで良い。
 答えは急がなくて良いだろう。困ることではないし、むしろ知らないままでいる方が、とても素敵なことがたくさん詰まっている宝箱を前にしているようで、とてもわくわくする。
 苦笑を含めながらも笑いかけてくる人を見上げながらことはは、幸せな気持ちで大きく頷いて見せたのだった。

2009/10/09

朱く咲いて-アカクサイテ-

赤黄ですが殿は出てきません。黄→赤かな?
本当は花が咲いている時期に書き終えたかったのですが間に合いませんでした。残念。
一番好き花なので贔屓入りまくってます。が、苦手な方もいらっしゃると思いますのでお気を付けください。

さて、咲いたものは何でしょうかというお話。



― 朱く咲いて アカクサイテ -


 庭に咲いていた、赤、白、黄。
 赤は良く見かける。白も、全く見たことが無いわけではない。とても珍しいけれど。
 でも、黄色は何だろう?
 近寄って見てみれば、花の形は赤とまったく一緒だった。
 違いがあるとすれば、茎の太さと見事な大輪具合だろうか。

「こんなんあるんや……初めて見た」

 近寄ってまじまじと見る。
中心に輪を作る様にして、一つの茎から小花が外向きに咲いている。
 株によって咲く数が違うのか、綺麗に台座の形をしているものもあれば中途半端な物もある。
 それでも、その鮮やかさはどれも共通で怖いほどに美しい色だった。
 彼岸花。
 ことはの住んでいた山でも、この季節は良く見かけたものだ。

「これもおんなじ花なんや?」

 ことはが見たことがあるのは、田んぼのあぜ道かお地蔵様に添うように咲いた真っ赤なものが中心で、それに混じって本当に時々、白いのも見かけたたことがある程度。
 志葉の庭に咲いていたのは、それらの色に加え、ひときわ見事な黄色い彼岸花が一輪だけ花開いていた。
 異色の一輪はまるで赤い色の群れに囲まれるようにして咲いていた。それゆえに、白よりもより鮮明な色に見えた。
 初めて見た新種の色に、近づいてまじまじと見る。
 まっすぐに伸びた茎。そこに葉の姿はなく、支えもなくこんなに伸びて大丈夫なのかと思ってしまうほど伸びあがったその先には、冠をかぶるように八つほどの小花が集まり咲いていて、その様子こそが大輪を思わせた。
 放射状に中心から外に向いて咲いた花弁から、まるで両手を広げるかのよう緩やかに上へと延びる長い雄しべは、何かを受け止める台座のようにも見える。
 こんなにじっくり見たことはなかったが………不思議な花だ。
 そしてこの黄色はもっと不思議だ。最近は品種改良などで、見覚えのある花でも見たことのない色合いの物が花屋で並んでいたりするが、これもそんなものなのだろうか?
 そう、かがんで首を傾げながらことはが眺めていると、背後から声がかかった。

「ほう、今年も見事に咲いたものだ」

 振り向いた先にいた彦馬が、ゆったりとした足取りでことはと並び腰をかがめた。

「珍しいな、ことは。庭の散策か?」
「はい。ちょっと歩きたいなって思おて。そしたらここに……ちょっと前まで、なんも無かったはずやのに」

 彦馬は愉快そうに笑い説明してくれた。

「この花はちと特殊でな。夏の間は一切表には出てこないのだが、この彼岸時期になるといきなり顔を出し、花を咲かせるのだ。驚いたか?」
「はい。それで……この黄色のも、おんなじなんですか?」

 指をさし問えば、肯定の頷きが来た。

「正確にはちと違うが……これは変種なのだ。名を鍾馗水仙と呼ぶ。水仙と呼ぶのだが、立派な彼岸花の種類の一つだ。色だけではなく大きさも違うだろう? 本来ならこれはもう少しだけ遅く咲くのだが………今年は一斉に咲いたな。さては回りに負けじと思ったか」

 しょうきずいせん、と初めて見た花の名を反芻する。やはり聞いた事のない響きだ。
 名を知って改めて見れば、赤い群れの中に混じったまるで鬼百合かのような黄色を晒した花がことはを見つめ返してきた。
 桜と梅の木を隣合わせで植えると、桜の木が梅の花に釣られて早咲きをするという話は聞いたことがある。
 この黄色も、先に咲いた赤に釣られて花を開いたのだろうか。

「なんでお庭に植えはるんですか? うち、花言葉とかあんま知らんけど、彼岸花持って帰ると火事になるって聞いたことありますよ?」

 ことはは何ともないが、血や炎を思わせるほどの見事な赤い色を持つこの花を、人によっては怖いとか、気持ち悪いとか、そんな風に感じることもあるようなのだ。
 彼岸入りとほぼ同時に花開くこの花は、花の名通り死後の世界の彼岸そのものを指していると言う。
 墓や寺の近くに多く植えられていることも関係しているのかもしれない。

「そうだな………確かにこの花は、地方によってはシビトバナと呼ばれたり、カジバナなどと呼ばれることもある。この赤が、血や炎を連想させるらしい」

 鮮やか過ぎる、赤。いっそ紅と呼ぶ方が正しいほどの色に、人は忌避の念を抱く。

「うちは、綺麗な色やと思うんやけどなぁ」

 ぱっと見渡すだけでも、赤い色は勿論、同じ花かと疑うほどの純白を持った白い彼岸花も、絵具の黄色をそのまま出してきたような色合いの黄色も、どれも鮮やかな色を持っている。
 彼岸の季節はそのまま実りの季節だ。
 収穫前のたわわに実った稲穂の金。夏に萌ゆる草の緑、そして夏の陰り残す蒼穹の青。
 それらが全て合わさった晴れた日に見かけるこの赤い花は、全ての色味を驚くほどに引きたて、そうしてその中で自身の色をもしっかりと主張する。
 何者にも衰える部分を持たない。それどころか、他のすべてより勝っている。
 道端でそっと咲いていながら、気品あふれるその姿はさながら王者だ。
 その強すぎる存在感に惹かれ摘み帰ろうとして怒られたことがある。火事になるから、と。
 怒られた記憶を伝えると、彦馬はしわを深くし呵々と笑った。

「ことは、この屋敷は一度外道衆の手によって、火を放たれたことがある」
「ええ!?」

 迷信ではなかったのか。
 本気で驚いてことはが赤い花々をおろおろと見るが、彦馬の笑みは消えない。

「花はその後に植えた。それ以後、火事に見舞ったことはない。……茉子の料理の際にちょっとしたぼやが起こったようだが、大事には至ってないので問題はないだろう」

 それはどういう意味なのだろうか。
 彦馬の言いたいことが判らず眉を寄せれば、志葉の従者は咲く花々を見、

「迷信というのはそうそう侮れるものではなくてな……。勿論この場合は、この花の色を不吉だと感じてそう人の口にのぼったのだろうが、中には忠告の意味が含まれているものも存在する。だからわしらは、逆の意味を込めてこの花を植えた。二度と火事や悲劇が起らぬようにと。そしてそれを忘れぬようにと、………弔いと戒めの意を込めてな」

 かつてこの志葉の屋敷には、結界の守りを破り外道衆が押し寄せてきたことがあるという。
 その際に倒れた者の数は知れず、他ならぬ丈瑠の父親もそのうちの一人だ。
 彼岸花の花言葉は“悲しい思い出”。付け足してそう教えてくれた彦馬は、懐かしむように、痛むよう眼を細めていた。
 誰もが連想したように、この花を見ると血のようだと思い、天に向かって伸びる姿は燃え盛る炎を思い起こす。
 彦馬の眼にはかつての惨劇の様子が映し出されているのだろうか。
 窺うように覗きこめば、気付いた彦馬が小さく笑った。

「昔のことだ。今のお前がそのような顔をする必要はない。………それにな、この花には違う意味もあるのだ」

 え? と問い返すことはに彦馬は続ける。

「“再会”、“情熱”、“思うは貴方一人”。他に“諦め”という意味もあるが、まるで正反対だろう?」

 目を丸くするしかないことはに笑いながら彦馬は言葉を続けていく。

「それがこの花の何とも不思議な魅力よ。何事も、一面のみを持っているわけではない。孤独や別離を意味しておきながら、その半面強さと一途さを兼ね揃える。同じように、不吉と忌み嫌う者もいれば、天上の花だと有り難く思う者もいる。ことは、お前はこれのもう一つの名を知っているか?」

 首を振って答えた。異名が幾つもあると言うのはいましがた聞いたばかりだが、それとはまた違う物だとおう。

「曼珠沙華と言う。仏教においてこの花は、吉兆の兆しとして扱われおるのだ」
「吉兆……?」
「良いことが起こる兆候……つまり、それを知らせるという意味だ」
「へぇ~……」

 感嘆の思いで花に目をやる。
 不吉なイメージしか聞いてこなかったため、そんな風に言われるととても新鮮だ。

「絶望と孤独を持ち合わせていながら、希望と邂逅を得て行こうとする。まるで人のようだと思わんか?」
「ええと……ごめんなさい、うちには難しいです」
「お……そうか。なに、ちと感傷が過ぎる言葉じゃった」

 笑う彦馬に同じように笑い返し、花に目線を合わせた。
 ことはにはまだ彦馬が言うほどの奥深い意味は判らない。いずれ判るようになるのだろうか。
 判らないが、なんだか誰かに似ているな、と思った。
 人のようだ、と言われふとそれを、

(………殿様、みたいや)

 思い浮かび、その人の名を心の中でなぞった直後首を傾げた。

(なんで殿様? 色が赤いから?)

 丈瑠のモヂカラは火。すなわち赤であり、確かに目の前の花と共通している。
 だがしかし今の彦馬の説明を受けて思いだすとはどういうことだろうか。
 仕えるべき主君が不吉なイメージが根強い花から連想されるのはさすがにどうかと思い、そう考えた自分に本気で首を傾げながらことはは目の前、赤く咲く花を凝視した。
 血のような赤い色。
 だから人だと言われれば、薄らとではあるが判る。だがそんな意味で丈瑠を思い浮かべたわけではないはずだ。そもそも、それならば丈瑠限定である必要が無い。

(色が一緒なだけって、それはすっごく失礼や。殿様やったらこんなんとのうて、もっと別のちゃんとしたのがあるはずや……!)

 たとえば薔薇とか、梅とか、あとトマトやスイカとか。どれもなんだか違う気がするがそんな感じでとにかく凄い物が。
 そこにいるだけで放つ強い存在感。秘めている熱さ。あの人が見守っていてくれるのだと思うと、暖かい気持ちをきっと誰もが持てる。
 そうれは………そう、太陽みたいな。
 うん、そうや、その調子や。お日様って火と一緒なんやからこれで間違いないはずや。
 だってあんなに凄い人なんだから、それにふさわしいイメージの方がずっと近いはず。
 ただ一つ、眩しいほどに自ら光り輝く。不屈の意志を持つ彼の人にぴったりではないか。
 この花は綺麗だけれど、こんなに淋しくて孤独だ。
 志葉の庭では群れて咲いているけれど、ことはが今まで見てきたものは、みな寂しげにたたずむものばかり。
 丈瑠はそうではないと………そう思ったところで否定する思考がゆっくりと停止した。
 本当にそうだろうか? 少なくとも、最初に会った頃の丈瑠は、とにかく何でも一人きりでこなそうとしていた。
 ことはたちを必要ないとは言わなかった。でも、近寄りがたかった。

「……………」

 目前に咲く、相反の意味を持ち合わせる赤い花。
 細長い茎の果てに咲く大輪。
 孤独なのにしゃんと立ち、背を高くして全てを睥睨する王者のような姿。
 それは他者を寄せ付けない風格を持っていながらしかし、どこか見守るようで。
 考えれば考えるほど丈瑠に良く似ている。
 孤高のその姿には一途さを持つ者ゆえだと今しがた彦馬に教えてもらったばかり。
 ことはの主君は、強くて厳しい人だ。
 でも、厳しいだけじゃない。あれだけ厳しくありながらも、追いつこうとすることはたちを必ず待っていてくれる。
 厳しくて、優しい人だ。
 ことはは彼の人が弱音を吐いた姿など見たことはない。だから倒れる姿など想像がつかないし、例え何事が起こっても、屈服することなど絶対にないだろう。
 そんな丈瑠にだって、苦手な物があると云っていた。ことはが知らないだけで、弱い部分だってきっとどこかにある。
 厳しくて優しい。
 強くありながらも弱い。
 相反の人。

「そっか………」

 燃え盛る炎のようで、流れ落ちる鮮血のようでありながらもこの花を不吉と思わなかった理由。それが、何となく判ってきた。
 昔からこの花を怖いと思ったことは一度もなかった。
 畏れ多いとどこかで思っていたが、尊敬するような気持の方が大きかった。
 それは、志葉の殿様が炎のモヂカラを有すると聞いていたせいだったからだろうか。赤い色に抵抗はなく、むしろ綺麗だと思い続けてきた。
 今のことはの目には、より一層綺麗に見える。
 花言葉の意味を知ったからでもあるし、花を恐ろしいと思わぬ理由が判ったからでもあるのだろう。
 この花は丈瑠そのもの。
 凛と咲く儚さ、異彩の存在感、それはそのまま、たった独りで闘いぬいてきた丈瑠と同じだ。
 頼りある高い背を思い返しながら、親しみを込めてことはは花を見る。
 志葉の庭に植えられたこの花は痛みを忘れないための物。そして、それを持って諦めるのを由としないことを刻みつけるための物。
 ことはの主君そのもののような花。

(やっぱり、色が一緒やしね)

 あれやこれやと考えて辿り着いた結論だったが、この花が丈瑠のようだと思ったのはやはり色が一番の原因だろう。
 もしかしたら、彦馬もそんなことを考えて植えたのかもしれない。
 そのことを彦馬に問いかけようとして、ふと気が付いた。
 ことはの目の前に咲く赤い花は群れており、その中に黄色を抱えている。
 群れる紅の花。その真中に咲いた、異色の黄色。
 囲うその姿はまるで、赤の花が黄の花を守っているかの様にも見えた。

「………え?」

 静かに花を愛でる彦馬の横で、同じように興味深々と花を見つめていたことはから小さな言葉が発せられる。
 声に彦馬が見れば、並んでしゃがんでいた少女の顔が真っ赤になっていた。

「どうしたことは。顔が赤いぞ?」

 問えば、はっと気が付いたかのように顔を上げた。
 それから戸惑うように自分の顔をぺたぺたと触り始める。
 挙動不審の様子に、まさか、と思い彦馬は問いを重ねた。

「ことは、熱があるのではないか?」

 ことはの顔がまるで熟れたリンゴかのように赤い。まだまだ暖かいといえども、秋風で冷えたのだろう。
 しかし少女はその言葉が聞こえていないかったようだ。
 え? あれ? としきりに自分の顔を触ることはに再度呼びかければ、

「な、なんもないです。ちょっとアホなこと考えてしもて……」

 ? と眉をひそめる彦馬を横に、しゃがみこんだ膝の中にことはは顔をうずめた。
 耳まで赤い。
 さすがに不安を覚えた彦馬の心配とは別に、ことはの内心はパニック状態だった。

(うち、なんてアホなこと……!!)

 彼岸花に惹かれてやってきて、その説明を受けて、そしてふと、この花が主君のようだと思った。
 そこまでは良い。実際そのことを口にして、本人がどう思うかは判らないが、そういう風に見えてしまったのだ。一度そう見えてしまうと、後は変えにくい。
 問題はそこから先だ。
 赤い彼岸花を見て、これは丈瑠のようだと思った。
 赤が丈瑠。なら同じ理由で、黄の彼岸花は自分なのだろうかなどと考えたのが不味かった。
 まるで守るように赤く群れ咲いた中心に、一輪だけの黄に自分を重ねた瞬間、

(うちが殿様を守らんといかんのに、うちのほうが守られてどないするんー!!)

 外道衆との闘いにおいて、丈瑠は切り札のようなもの。
 だから絶対に守らなければならない存在だ。
 けれど丈瑠本人は守られるのを嫌がる。というより、それによって誰かが傷付くのを恐れている。
 以前その件で流ノ介と二人行き過ぎ、逆に丈瑠の心を傷付けた。
 もうあんなことは止そうと心に決めて、足手まといにならないように、丈瑠が傷付くことが無いようにと稽古を頑張って来たつもりだ。

(なのに、うちが守られるなんて………そんなんアカン!)

 見守られている。
 時折、そんな風に感じることはある。
 それはくすぐったくて嬉しいと同時、ひどく安心もした。
 でもそれとこれとは違う。丈瑠は主君として、ことはたちみんなを見てくれる。受け入れてくれている。
 だからことはたちは、彼が安心して闘えるよう、何も気にしなくても良いように強くなろうとしてきたのだ。
 それなのにまだ守られているように感じてしまうなど………そんなの、自分が未熟な証拠だ。

「彦馬さんっ」
「おお、ことは。どうした?」

 ことはが顔を膝に埋めてから数秒が経っている。
 気分が悪いのだろうかと本気で心配し始めた彦馬をよそに、ことはの口調はしっかりしていた。

「彦馬さん、うち、決めました」

 言い、唐突に立ち上がった少女は、赤い顔をそのままにして力強く宣言した。

「うち、もっと強おなる! 絶対なります!」

 心意気は立派だ。
 普段であれば喜ばしい決意だと褒めてやれるところだが、さすがに今は脈絡が無さ過ぎる。
 いやそれ以前に、急に立ち上がったりして大丈夫なのだろうか?

「ことは? 具合は良いのか? あまり無理はせぬほうが……」
「大丈夫や。彦馬さん、うち、今から稽古行ってきますんで!」

 言うなり踵を返し、ことはは稽古場の方へと駆けて行った。
 声を掛ける間もないほどの素早い決断と行動に、呆気にとられる。

「何かあったのか………?」

 なぁ? と残された彦馬が問いかけるよう、さきほどまでことはが見ていた花を振り返った。
 秋風に吹かれた彼岸花たちは、寄り添うように揺れ咲いていた。


2009/09/16

お世話をさせて!  後篇

十臓さんとの闘いで負傷した殿と、殿のお世話をしたいみんなのお話。
後篇はどこまでも趣味に走ってみました。お陰で前篇以上の長さに。でも楽しかった……。
前篇で殿総受と評しましたが、殿惨敗という表記が一番しっくりくることが判明。
頑張ってるけど惨敗しまくる殿をご堪能ください。



-お世話をさせて!  後篇-


 流ノ介に追い立てられ逃げるように千明が去って行った後、なおもぶちぶちと言いながらも流ノ介は下がらなかった。
 一体いつまでここにいる気なのか、もしや一晩中居続けるつもりなのかと不安に思って尋ねてみれば、

「一晩私がここにいては、殿もお休みにはなれないでしょう」
「まぁな」
「外道衆がいつ現れるか判りません。出来れば殿のお傍を離れたくはありませんが、そういうことを言っている時ではありませんので……」

 いつもどおりにぴんと背を伸ばし、両膝に手を乗せ流ノ介は言った。
 伏せた眼には決意がある。

「流ノ介」

 呼べば、屈折という単語を知らなさそうなその眼が、一度も逸らされることなく続きを待った。

「俺はこの通り、暫くは刀が握れそうにない。一応左手のみでも闘えるが………」
「殿!」

 すかさず入った声に、苦笑を洩らす。

「判っている。もう少しぐらいは大人しく傷を治すことに専念する。だから流ノ介、それまでの間はお前たちだけだ」

 はっ、と折り目正しく流ノ介は頭(こうべ)を垂れた。それに頷き返し、言う。

「インロウマルはジィに預けてある。……正確には没収されたんだが、必要な時はジィから貰え。使いこなせたんだ、後は判るな?」

 はっ、とさっきよりも深く頭が下がった。そこから素早く上体を起こし、今度は両の腕を畳に付けた。

「殿のお言葉、しかと承りました。この池波流ノ介、殿が戻られるまでの間、精いっぱいお役目をまっとうさせて戴きたいと存じます」

 どこまでも固く律儀な相手に合わせると言う意味ではなく。
 その真っ直ぐな思いに応えるべく、丈瑠は深く顎を引いた。

「頼んだぞ」

 はっ、と短い応答の声を気合を乗せて発し、一礼の後に流ノ介は部屋から出て行った。
 襖が閉められ、静かな足音が遠ざかって行く。
 その音が完全に消えるのを確認してから、丈瑠は長い長い息を吐いた。ゆっくりと座り込む。
 ようやく、一人になれた。
 思えば屋敷に戻ってきてから常に誰かが傍にいた。
 最初の手当ての際には彦馬と黒子が。
 終えた後には家臣たちの前に顔を出し、それからはずっと誰かしら丈瑠の傍を離れようとしなかったのだ。
 源太が持ってきた寿司を食べるときには大騒ぎだった。
 両手がほぼ使えない状態の丈瑠のために、善意の塊のことは、世話が焼きたい流ノ介と源太、面白がる千明、いつの間にか参加してきた茉子と、昔を思い出したのか急に懐かし始めた彦馬、全員が丈瑠に自ら寿司を食わせようとしてきたのだ。
 口いっぱいに押し込まれ反論すら出来ず、黒子が茶を持ってきてくれなければどうなっていたのか。
 せめてもう少しゆっくり食べさせてほしかった、と半ばずれたことを考えつつ右手で顔を撫でようとして……その腕が動かせないことを知り、改めて、厚く包帯が巻かれた腕に触れた。
 指の先には布の感触がある。ざらざらとする伸縮を目的とした作りのそれに、丁寧に巻いてくれた千明を思い浮かべた。
 大雑把そうに見えるが、こういうことはきちんと出来る。というより、千明はそれなりに何でもそつなくこなせるのだ。
 ただ本人が、今までやってこなかっただけの話。だから実力で他の者と差が開き、その差分だけ見て、己は半端者だと勝手にふてくされている時期もあった。
 その千明が何やら思う所がある様子で丈瑠の手当てをしていた。
 じっと古傷を見つめてくるのに、何か言うべきかと思ったが……結局簡潔に言ったのみで深くは言わなかった。
 ざらざらとした包帯の感触を指でなぞりながら、今更ながら自分が生きていることを痛感した。
 よく、生き延びたものだ。
 ようやくそう思える余裕ができてきた。さっきまで、騒がしくてそんなことを考えている暇などまったくなかったのだ。
 一人きりの部屋、その中央に座り込み丈瑠は天井を見上げる。
 別段、何の変哲もない天井がそこにはある。慣れ親しんだ自分の部屋の天井だ。
 ぼんやりとそれを眺め………やがてゆっくりと瞼を閉じた。
 視界が暗くなれば、意識は自然と内側へと向いていく。
 とくとくと心臓が音を立てている。合わせて血が流れ、体中に行き渡っていく。命の音。
 今日の闘いは、十臓との立ち合いは、下手をすればこれが一切なくなるということだった。
 なくなる、とは、失う、ということだ。
 僅かな差が己を限りなく危険にし、そして僅かな差が、十臓ではなく丈瑠を生かした。
 それは偶然であり、運であるように思える。
 純粋な力量を見るのなら、十臓の方が遥かに上だ。
 だから丈瑠が生き残ったのは、全ての偶然が味方した運であるとしか言いようがない。
 もし、あの時かわしそこねていたら。
 もし、あの時刀が届かなかったら。
 もし、あの時十臓が避けなかったら。
 もし、と閉じた視界の中、幾度も可能性を探す。最悪に繋がる可能性を。
 たった一歩の間違い。たった一手の取り違い。
 打ち出した全てが、よくぞ生きていたと思えるほどの途方もない一手ばかりだったのだ。
 失敗の先に待つのは死だ。
 さっぱりしたばかりの身体を、嫌な汗が噴き出しているのを感じた。
 落ち着いたはずの、終わったはずの斬り合いがよみがえってくる。
 どっどっ、と深く耳障りな音が身体の中心から発していた。
 泡立つ肌はもはや止まらず、握れない刀の感触を、包帯に阻まれた手のひらにありありと感じた。
 いつの間にか場所も、自室ではなく海辺に変わっていた。
 だが波の音も潮の香りも感じない。
 聞こえるのは「ひゅぅ」という己の呼吸と、甲高く響き渡る鍔迫り合いの音だけ。
 一合、二合と切り結び、三合目ですれ違い、四合目では互いに背を向け、五合目は返し刃で薙ぎ払った。
 何も考えてはいなかった。
 ただ刀の起動に添って、切っ先が向かうがままに相手の刀を受け止め、打ちこんだ。
 身を切るのは刀であり裂帛(れっぱく)の思い。強すぎるそれは相手のものか、自分のものか。
 もはやそれは判らず、ただ踊り狂うように、獣のように牙を剥き続けた。
 もし、とその瞬間瞬間を思い出す度に思う。
 もし、後一歩、踏み込みが多ければ。
 もし、立ち上がるのが少しでも遅れていれば。
 もし、刃をはじくことが敵わなければ。
 全ての「もし」は、即刻そのまま死に繋がった。その度に冷や汗が流れ落ちて行く。
 狂え、と声が聞こえていた。
 狂ってしまえ。そうすれば、もっと獣になれる。今よりももっと強い獣に!
 打ち合う度に聞こえてきた声が今また蘇ってくる。
 嗤っていた。十臓。狂ったように。事実、狂気に呑まれた相手。その相手が誘う。
 狂え。狂え。狂え。狂え。そうすれば怖れは無くなる。
 耳元で囁き続ける狂気。
 抗うように刀を振り続け、狂気と驚喜、一刀ごとにそれらが入り混じらせながら同じように刀を振るう相手と対峙し続けた。
 十臓は嗤っていた。最後まで。
 愉しいだろう? と壮絶な笑みを浮かべ続けていた。
 丈瑠はそれに応えなかった。応えないようにしていた。
 応えてしまえば、あっさりと同じ側に足を踏み入れるのが良く判っていたから。
 もう居ない十臓の幻に向かって、ようやく丈瑠は問いかけに応えた。自分が、どんな表情を浮かべているか判らずに。
 あぁ、そうだ。
 そうだとも。
 ここにはいない相手を睨みつけながら肯定する。
 肌が泡立つ感触も、ぞくぞくと背を抜けて行く底の知れない気の高ぶりも、己の身の内から発する血流の音も、どれも味わったことが無いほど最高のものだった。
 あれほどの切り合いが出来る相手は、もう二度と出会えない。
 ただの一手の躓きが、全て死に繋がる後退の許されない世界。この上ない命のやり合い。
 その、何たる切なことか!
 早く終わってくれと身の内で叫びながら、永劫に続いてくれと願い続けてもいた。 
 あれほどまでに喜悦に浸れる時間はもう二度と現れないだろう。
 狂気としか言いようがないほどぞっとする瞬間だったはずなのに、例えようもないほど満たされてもいた至上の瞬間。
 十臓が恨めしい。
 何十年、何百年も飢えの果てにそれを得た十臓。
 なのに自分は、これから先もう二度と味わえないと知りながら生きなければならな―――――

 かたんっ!

 突如聞こえた現実の音にびくりと丈瑠は身体を震わせた。思考が途切れ、十臓の幻が消えた。
 場所は自分の部屋の風景に戻っていた。とたん、今まで感じていた物とは違う冷や汗が噴き出してくる。
 つ、と汗が顎を伝って行った。心臓は早鐘を打ち続け、全身を熱く廻っていた血が底冷えを開始する。
 警戒が首をもたげて背後から現れた。
 十臓との相対で研ぎ澄まされきり、限界まで張り詰めていた神経が音の出所を探し、眼が部屋の襖へと注がれた。
 誰か、いる。
 ぎくりと身が強張るのが判った。警戒は消えない。相手は襖の取っ手に手を掛けていた。すぐにあれは開かれる。
 誰だ、と思う前に身体が動いていた。
 は、と息が荒くなる。一度冷え切った血液が、再び灼熱を持って身体を廻り始めている。
 極限まで高まっていた緊張が、空に放り出されたままなのだ。高ぶりをぶつけるべき相手を失ったそれが、丈瑠の判断力を鈍らせていた。
 誰何の声を上げる余裕すらない。
 残されているのは、手負いの猛獣じみた敵意にも似たむき出しの本性だ。
 ぎらぎらとした眼で睨む先、何も知らない相手が無防備に襖を開けた。
 そして、

「よぉーす! 丈ちゃん、起きてるか~!?」

 勢いよく襖を開け現れた源太に、丈瑠は手近にあった枕を勢いよく投げつけた。ひるんだ相手との間を姿勢を低く一息もなく詰め驚く相手の顔に利き手を伸ばそうとし、しかし包帯で塞がれたそれが動くはずもなく、空ぶった勢いがならば左手をと思う間もなく身体の不自由さを考えず動き出した結果自分の脚に躓くことになり―――――源太に届く前に、丈瑠は崩れた。
 ぐるりと、視界が回った。
 かと思うと、背中から強く床に落ちた。

「―――――っ!!」

 声にならない痛みが、空気と共に吐きだされる。
 上から源太の慌てた声が聞こえた。

「わわっ! 丈ちゃん!? だ、大丈夫か!?」

 じりじりと響くような痛みが肩を中心に駆け巡る。のたうち回ることすら許されない痛みに、涙すら浮かんできた。

「わー! 泣くほど痛かったか!! 黒子ちゃーんっ! 黒子ちゃーん!?」
「げ、源太っ……!!」

 何とか声を絞り出す。
 むせ上がる喉を押さえることもできず、それでも丈瑠はやって来た黒子に手を振り何でもないと伝えることに成功した。
 源太の手を借り、痛みに顔をしかめつつ何とか立ち上がる。

「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。……すまん」
「いや、俺は何もねぇけどよ。いきなり目の前ですっ転んだからびっくりしたぜ」
「………すまん」

 そのまま再び部屋の中央へと。
 ゆっくりと座らされ、まだ痛みの響く肩をやはり治療の後にまみれた左手で押さえ、うずくまる様に痛みが引くのを待つ。
 源太はそれまでの間に、投げられた枕を取りに行き布団へと放った。
 丈瑠が顔を上げるのを待って、嘆息混じりに問う。

「んで。やたら殺気立ってたようだけど、なんかあったのか? いや、それに気付けねぇで入ってきた俺だって悪かったけどさ」
「いや………」

 何でもない、と言おうとして、それで済まされる相手ではないのだった。
 これが流ノ介や千明なら、強く良い通せばそれが通る。
 だが相手は源太だ。理由も説明もないものに、決して簡単に下がってくれる相手ではない。
 ましてや被害を加えようとしてしまったのだ。何でもないが通じるわけがないだろう。
 そう考えていたのが伝わったのか、

「何でもない、なんて言いわけ通用すると思うなよー?」

 先回りで封じられた。

「俺と丈ちゃんの仲だぞ? 隠し事は殿様だから仕方ねーとは思うけど、こんな時に騙しはナシだ」

 きっぱりと、それも笑って言われてしまっては、正直に答えるしかない。
 だがどう説明しようかそれに少し悩み……ややあって、丈瑠はぽつりと口を開いた。

「……昼間の闘いを、思い出していた」
「………」

 源太は無言で続きを催促する。
 ためらいを乗せながら、源太から顔をそむけ続ける。

「一つ間違えば、俺は今ここにいなかったんだなと思うと……正直、勝ったのが不思議なぐらいなんだ。それで、考えてた。どうして勝てたのか………なんで俺が生き残ったのか」

 訝しげな視線を頬に感じた。だがわざと無視をして、独白を続けた。
 吐きだし始めた思いは止まらない。
 じわじわと広がってくる虚無感めいたものを抱え、空いた左手を握りしめ、

「負けるつもりで挑んだんじゃない。だけど、あいつは強かったから。きっと俺より強かったから、思い返せば思い返すほど判らなくなるんだ。勝てたのは何が原因だったんだろうって。闘っている時のことを思い出して、それに呑み込まれてた。………悪い、」

 止めれらなかった、と続く言葉を、

「だぁー!!」

 突如上げられた源太の大声に遮られた。

「げ、源太……!?」
「難しいことはもぉぉぉ、いいぃー!!」

 源太は地団太を踏むように両手をばたつかせ、驚く丈瑠の真横でぐしゃぐしゃに髪を掻き、付けっぱなしだったねじり鉢巻きをむしり取った。
 むしり取ったそれを勢いのまま丈瑠の前に突きつけて、幼馴染は声を張り上げる。

「いいか、丈ちゃん! 良く聴け!! あいつがどうこうとか関係ねぇだろッ! 強かろうが弱かろうが勝ったもん勝ちだ! じゃないと怪我しただけただの損だろ、意味ねぇだろッ!! 後から色々考えたって結果なんて変わりゃしねーんだ! そんなんで丈ちゃんが頭悩ますとこか!?」 

 唖然とする丈瑠の前で源太は立ち上がった。唾を飛ばし叫ぶ。

「確かに! 俺の寿司美味いと言ってくれた奴がいなくなっちまったのはちぃと淋しいとは思うけどよ、そんなの小っせぇことだろっ!!」

 あぁ、そこはやはり気にしていたのかとぼんやりと思った。
 そういえば俺、美味いって言ってやったことあったっけななんて余計なことまでつい考えてしまう。
 そんな合間にも源太は叫び続けていた。
 あまりにも唐突過ぎてつい思考が違う所に向きかけたが、本気で大声を上げる源太を見るうちに、やがて何を言いたいのかが判ってきた。
 判ってくると、呆然とする以外の別の感情が混ざってくるのも、また判った。
 源太の叫びは続く。

「生きてんだろ!! ここに居んのは丈ちゃんの方だッ!! 勝った方は堂々としてりゃぁそれで良いんだよ!!」
「………く、」
「そーだ、余計なこと考えてる必要なんざねぇッ! 殿様なんだから、もっとこう威風堂々、でっぷりとふんぞり返って左うちわでのんびりしてて問題ねぇじゃん!」

 多分源太は、何か考えがあって言っているんじゃない。ただ思いつくまま、口の回るままに、次々と言葉をまくしたてていっているだけだ。
 でもだからこそ、ストレートに言葉が伝わってくる。それが、広がっていたむなしさを一気に吹き飛ばした。
 生きててくれて、嬉しかった。
 源太はそう言っている。

「はっ!?………そうだよ、今の丈ちゃんそのまんまじゃんっ!! 左手で扇振るって座布団にでも座ってれば完璧だ! んで後のことは全部流ノ介や俺らに任せて、」 
「………くく、は、ははっ、はははははっ」
「なんか適当にやんだろ、俺だって最高の寿司作って持って来………ん? 丈ちゃんなんで笑ってんだ?」

 後はもう、源太が何か言うたびにおかしかった。
 笑う度に全身が震え、傷に響く。傷口が開いてないだろうな、なんて今更ながらに頭の片隅で思いながら、気のすむままに笑いながら、答えが出てくるのを感じた。
 多分、みんなだっておんなじことを考えていたんだろう、と。
 屋敷に戻ってきてから、べったりと丈瑠の傍に居たみんな。
 我先にと食べさせようとしてきたのも、丈瑠には内緒で世話をする役割を決めていたりしてたのも、それぞれが不安に思っていた反動にすぎない。
 強く思っていてくれたからこその行動。
 大人しくお世話されなさい、という茉子の言葉が思い返された。
 なるほど、これは確かに、大人しく彼らの気が済むまで好きなようにさせるしかない。
 みんなが丈瑠を見ていて。
 みんなが、丈瑠を思ってくれているのだ。
 引きつる腹筋を押さえつつ、顔に疑問符を並べ立てながらこちらを見下ろす源太に言う。

「源太」
「お、おう?」
「悪かった」
「……………」

 言葉に、彼はその場に胡坐を掻き、両の膝に手のひらをぺしんと付けて、

「おう!」

 にこりと笑って見せた。
 それを見て、丈瑠はさらに確信した。
 自分と、十臓。勝ち残ったわけ。勝敗の理由。 
 悩みぬくような難しいことじゃない。
 ただ、先を見ただけ。
 十臓は、闘うことだけを願いとしていた。
 でも丈瑠は、闘いの果てに勝ってみんなのところに戻るという目標があった。
 そして、その果てで待っていてくれる人たちが居た。
 それだけの違い。
 それだけの違いがきっと、丈瑠を生かした。

「正直なことを言えばさ」
「うん?」

 ふいに源太が声の調子を変えてきた。
 真顔を作り、言う。

「俺が行くべきかなって思ってた。丈ちゃんの代わりにあいつと渡り合えるのって、俺ぐらいだろ。だからさ、ホントにやばいときは俺が行ってやろうって」

 足止めぐらいはできんだろ、と笑う。
 その笑顔のまま、でもさ、と続ける。

「そうしたら、丈ちゃんは許さねぇだろ? もちろんあっちも許さねぇだろけどさ、切られるよりそっちが怖いわ」

 答えるのは避けた。源太だって返事を期待しているわけではなさそうだった。
 だから替わりに違う話題を振った。

「……そういえば源太は何をしに来たんだ?」
「ん? あぁ、流ノ介たちから聞いてないか? 俺は夜担当だ」

 夜? と首を傾げれば、

「昼間とか、屋台があるから動けねぇだろ? だから、店じまいした後にこっちにきて、丈ちゃんが寝るときに不自由しねーように、夜中に何かあっても手助けできるように、俺が選ばれたわけ」

 確かに流ノ介は、源太は手が空いている時に来ると言っていた。
 けれど源太は一度寝ればなかなか起きないので、例え夜中に何事かあっても絶対朝まで起きないんじゃないのか? と思ったが、口には出さないでおいた。
 黒子が布団を持ってきて、源太の傍に敷いていく。

「昔みたいだな。ほら、よくジイちゃんの目を盗んでこっそり遊びに来てそのまま寝ただろ。朝になって、ジイちゃんのどなり声で目ぇ覚ましたっけ」

 そう言って又笑う。
 丈瑠はもう色々諦めて、ふっきれたような気持で、笑う源太に苦笑で返した。
 これもまた生き残ったからこそ、味わえるものなのだろうと認めながら。

「………そうだな」





 夜が明けてしまう前、仕込みがあるからと源太は帰って行った。
 数刻後に入れ替わりやってきたのは彦馬で、丈瑠は流ノ介が来る前に黒子の手を借りて包帯の巻きなおしも身支度も全て整え終わっていた。
 残念がる流ノ介を従えて居間へ向かえば、そこは既に食事の用意がされていて、

「殿様、おはようございます!」

 ことはが、丈瑠が座る席の隣にちょこんと腰かけ待っていた。

「………忘れてた」

 ニコニコとしていることはを前に、丈瑠は項垂れた。
 自分の世話をみんながやるということを忘れていたわけではない。ただ、食事まで手伝ってもらうということをしっかり忘れていたのだ。
 昨日、それぞれの役ふりをなんと説明されただろうか。
 流ノ介が着衣の手伝い、末子が風呂の手伝い、千明が食事の手伝いで、ことはは手当の手伝い。
 そして千明は、自分がやるはずだった分をことはと交代したと言っていた。
 風呂の件をやめさせたことでことはの件も一緒に終わったものだと勝手に思っていたのだ。
 左手は全く使えないわけではない。食べようと思えば自力で食べられる、はず。
 そう言おうとことはを見たところ、やけに輝いた目で自分を見上げることはと目が合った。面映ゆいほどに眩しい、やる気に満ち溢れた目だった。
 とてもとても、食事は自分でするなんて言い出すことなど出来ない。

「殿様、うちがご飯のお世話させていただきますんで、どうぞ座ってください!」

 思わず回りに助けを求めかけ………千明と茉子が含みのある笑みでこちらを見ていたのを見つけて、無駄であることを悟った。多分、流ノ介や彦馬にやられるよりマシ……なのだ。まだ。
 やる気満々のことはは、立ち上がり丈瑠が席に着くのを待った。やたらと重い動きでのろのろと座る丈瑠を見て、きっとまだ傷が痛いんだと思いこむ。

(殿様……。もしかしたら起き上がるのも辛かったんかなあ? やったら、いっぱい栄養付けてもらわんと!)

 俄然やる気が湧いた。昨日ヘマをした分、頑張らなければと思っていたのだが、その使命感にさらに火を付けられた気分だった。
 全員が席に着き、両の掌を合わせる。丈瑠は合わせられなかったが、それでも揃って「いただきます」と言うときには小さく頭を下げた。
 手を下ろし次第、ぱっとことはは箸を取った。

「殿様、どれからがええですか?」
「……味噌汁をたのむ」

 訥々とした返事だったが、はいっと元気よく返事をして味噌汁椀を空いた左手に乗せた。
 丈瑠が何やら疲れた動きで口元に運ぼうとするのを見ている途中で、ことはは大変なことに気付く。
 慌てて丈瑠の腕を引いた。

「殿様、あかんっ。大事なこと忘れとった!」

 丈瑠が椀の中身をこぼしそうになりつつも、何とかこぼさずに引かれるまま腕を下ろすのに成功させたところで、ことはが真剣な顔で言った。

「な、なんだ?」
「出来たてで熱々のお味噌汁やから、ちゃんと冷まさんと。そのまま飲んだら火傷する!」
「いや、これぐらいなら……」

 別に猫舌ではないから問題なく飲める、そう言おうとする所、ことはが椀を取り上げ自分の口元へと運んだ。え、と思う間に、ことはは丁寧に味噌汁に息を吹きかけ始める。
 どうやら冷まそうとしてくれているらしいのだが………。

「姐さん、あれ何時間かかると思う?」
「結構かかりそうね……。汁ものってなかなか冷めないし」
「こ、ことは、頑張るのだぞ……!」
 
 ひそひそと言い始める家臣たち。見守る側は言いたい放題だ。彦馬は知らんぷりを通している。
 何からどう言えば良いのか判らないながらも、ふぅふぅと可愛らしく吹き冷ましてくれていることはに、丈瑠は出来るだけ不自然じゃないよう柔らかく提案した。

「……ことは、味噌汁は置いておけばそのうち冷めるから、別のものを先にくれないか?」
「そうですか? じゃぁ………」

 大人しく味噌汁椀を卓に戻し、どれにしようかとことはは迷った。
 暖かい湯気を昇らせているご飯にするべきか、それともおかずを優先させるべきか。
 本日の朝食メニューは白米、豆腐の味噌汁、玉子焼き、ほうれん草の胡麻和え、焼き魚、ひじき、黒豆、野菜の煮物。あとオプションで海苔があったりたくあんがあったり。典型的な和食な朝ごはんだ。
 果たしてどれからが理想的だろうか。
 むぅと眉をひそめ悩むことはに、丈瑠が声をかける。何やら妙に嬉しそうな声で、

「そうだことは、自分の朝食はどうした? まだ食べてないだろう? 先に食べて、俺は後からで……」
「殿様がご飯食べてる最中に、お腹鳴ったら大変やと思って。彦馬さんと黒子さんにお願いして、先に食べさせていただきました」

 活路を見出したと思った提案だったのに、見事打ち破られた。
 非難がましい目で彦馬を睨めば、目付け役は「ほう、今日のたくあんは絶品だな」と昨日も出ていたたくあんを摘み上げて視線を無視してくれた。

「いいじゃない丈瑠。昨日は大人しく食べたんだし」

 茉子が無責任にかつ楽しそうに言う。
 昨日と今日とでは状況が全く違う。言いたいが、やる気満ち溢れることはを前に言えるわけがない。

「そうそう、丈瑠だってさ、男の俺に食べさせてもらうよりことはの方が断然良いだろ? 喜んでもいいんじゃね?」

 美味そうに食べながら、千明。
 頷く部分は確かにあるが、全面的に呑みこむことができかねる同意だ。
 どう見てもこうなることを面白がっている風にしか思えない。

「殿、それでしたら私が……」
「いや、いい」

 さすがにその申し出だけはきっぱりと断れば、きょとんと会話を聞いていたことはの表情が曇った。

「殿様………もしかして、嫌やった?」

 しゅんと項垂れる小さな頭を前に本気で狼狽した。

「あ、いや……嫌とかそんなんじゃなくて、だな。その……」

 視線が丈瑠に集まっている。どういうわけか黒子たちの視線まで感じる。
 この場にいる全員が、丈瑠がどう切り返すかを待っているのだ。
 続きを詰まらせたまま言わない丈瑠に、ことはの目が悲しそうに歪んだ。

「うち、ホントは昨日殿様の怪我の手当てやるはずやったんだけど……。またドジ踏んでもおて、千明と替わってもろおたんです。ご飯食べさせるのやったら出来るやろうって。やけど………」

 焦る丈瑠の前で、輝きに満ちていた瞳が見る間に影っていく。
 それに比例するように、非難するような強い険呑とした視線が……おもに茉子と千明の座る辺りから感じて、うすら寒い物も感じる。
 ことはは完璧な善意のみで食べさせてくれようとしているのだ。茉子や千明のように、面白がっている部分など何一つ入ってはいない。そんな相手に「恥ずかしいから勘弁してくれ」などとどうやって伝えられるだろうか?
 何よりも、目の前で泣かれるのは弱い。とても。
 観念する以外に上手くやる方法を、丈瑠は知らなかった。

「なんでもないんだ、ことは。………すまん、食べさせてくれ………」

 言えば、ぱっとことはの表情が明るくなった。
 花が咲くかのような笑顔。それを見せられれば、恥ずかしがっていた自分がおかしかったかのように思えてくるから不思議だ。
 誰かに食べさせてもらう姿を他の者に観られるという羞恥だったが、何を気にすることがあったのだろう。
 自分は志葉の当主。
 家臣に見られることに恥ずかしがる必要などあるのか。こう言う時こそ堂々として然るべき、だ。
 そう腹をくくると、気を取り直したことはがいそいそと食膳に箸を向けた。
 少し迷い、結果玉子焼きを選んで手皿と共に丈瑠の口元へ寄せてきた。

「それじゃぁ殿様、口開けてください。あーんって」
「あ………!? ことは?」
「殿様も一緒に言ってください。はい、あーん」
「いや、ま、待て。それはちょっと………」
「言わんとアカン。それ言わんと、殿様がご飯食べれんようになる」

 ことはの態度は頑なだ。本気でそう信じているようだった。
 いきなりくくった腹が台無しになったことに頭を抱えてしまいたい気持ちになったが思いとどまる。まずはそんな余計な知識を与えた人物を割り出す方が先だ。

「………ことは、誰に言われた?」
「え? だって千明が、絶対これせなアカンって。誰かに食事を食べさせてあげるときのルールなんやって。昨日うちと交代してもらった時に……」
「千明!」

 思わず大声を上げれば、千明は茶碗を抱え頬張りながら笑っている。

「ことはに変な嘘を教えるな!」
「嘘じゃねーって。丈瑠が知らないだけだろ、それがフツーだって」
「そんなわけないだろう!」

 え、ウソなん? とことはが目を瞬かせているが、今は構っている状態じゃない。
 千明に誤解を解かせようとしたが、それよりも千明がけしかけるほうが先だった。

「ことは、早いとこ食べさせてやれって。朝稽古遅れるぜ?」
「あ、そうやね。殿様、はい。あーん」
「いや、だから……」

 生真面目に信じ込んだことはにどう説得しようかとよぎったそこに、袖を引く者がいた。
 彦馬だ。

「殿」

 彦馬は丈瑠の耳元に口を寄せ、決してことはには聞こえぬよう、

「良いではないですか。してあげなさい、“あーん”ぐらい大したものではないでしょう」
「そうは言うがな、さすがに俺までそれを言うのは……」
「一国一城の主たるもの、堂々とお構えなさい。家臣の心を無駄にするおつもりですか!」 
「あのな……!」

 そんなひそひそ話をしている二人に不安を感じたのだろう。ことはの眉尻が下がり、

「やっぱりうち、どっかおかしいですか? ちゃんと間違えんようにって練習したんやけど……」
 
 誰を相手にしたんだ、誰を、と思わず言いかけたが堪えた。
 視界の端で、流ノ介は顔をそむけ耳を押さえ、何も見てません何も聞こえてませんを貫き通しており、茉子は黙々と食事をしているようだが、時折その肩が震えていた。千明はもう、腹を抱えて声もなく笑い続けている。
 万事休す、四面楚歌、いや背水の陣か? 状況的にどれが正しいだろうかとどうでもいいことまで頭の中を過ぎていく。
 
「昨日、みんながちゃんと殿様のお世話できて……うち一人だけなんも出来へんのやって思おたら悲しくて……。そやから、今日はちゃんと頑張ろうって………」

 何かしたい。してあげたい。自分で出来ることがあるのなら。
 その思いに突き動かされてやろうとしても、ことはに出来たのは薬湯を作り置くことだけだ。
 剣を振るうのと、笛を吹くこと。この二つ以外、いつまで経っても自分は何もできやしない。
 そう自分で思うのは良くないことだと判っているのだが……それでも、やはり何も出来ていない場に直面すると、自分の出来なさっぷりに落ち込んでしまう。
 昨日ちょっぴり茉子に慰めてもらって、今日こそはと気合を入れなおしたばっかりだったというのに。
 あぁ、アカン。このままやったらホンマに駄目な子になってまう。
 ひたすら落ちて行く自分の思考を振り払おうと頭を振りかけたところ、目の前に座る人から言葉が来た。
 ため息とも近い息で、

「ことは、もう少し手を上げろ」
「え?」

 言われ、反射的に下がっていた手を上げた。
 適度な高さに来たところで、箸の先に掴んだままだった玉子焼きが消えた。
 また言葉が来る。

「次をくれ」
「は、はいっ」

 催促に、何も考えずに同じ玉子焼きを選んでしまった。
 だがそれも一口で消える。
 十分の咀嚼の後、次、と言われてから気が付いた。
 食べてくれてる、と思う気持ちと共に、

「……あ。殿様、ちゃんと言わんと……」
「言わなくていい」
「え? でも……」
「あれは千明の嘘だ」

 どこか憤然とした様子で簡潔に言い切り、丈瑠は次を催促する。
 ことはの目が丸くなった。千明を振り返れば、昨夜そうしなければならないと強く言った彼は「あーあ」と息をついていたところだった。

「千明、なんでそんなウソ言うん?」
「いや、全面的に嘘ってわけじゃねぇって。セオリー通りに倣えば間違ってないし。な、流ノ介?」
「セオリーか……? まぁ、あながち間違いとは言い切れん、としか私には言い様が……」
「まぁ一般的ではあるわね。場合によるけど」

 つまりは正しいのかそうでないのか判らない。

「千明、人で遊ぶな」
「へいへーい」

 聞いてるのかどうか判らない返答に丈瑠が「まったく……」と息を吐く。
 ようやくここで自分が間違っていたのだとことはは気が付いた。
 とたん、自分の言動を思い返し、恥ずかしくなってくる。

「殿様、ごめんなさいっ。うち……」
「お前のせいじゃないだろう」

 嘆息混じりに言われたが、丈瑠に怒っている様子はない。
 伺うように見上げれば、そこにあったのもやはり怒っている様子は全く無かった。
 それを証明するようにことはの主君は一つ頷いて、

「お前が食べさせてくれるんだろう。だから頼む」

 動かせない右腕を持ち上げると共に言われて、羞恥とは違う熱を頬に感じた。
 歓喜に淡く色づく頬が、熱と共に緩む。

「――――はいっ」

 ほわ、とことはが笑うのを見て、丈瑠は内心ほっと胸を撫で下ろした。
 通じてくれてよかった。ことはの素直で一生懸命なのはとても良いところだと思うが、同時に一途過ぎるきらいのあるそれは、一度信じ込んだものをなかなか曲げないという頑固さにも結びついて、こういう事態になるととても厄介だ。
 うきうきとするようにことはが箸を運んできた。
 無言で口に入れてももう何も言わない。それどころか、丈瑠が食べるのを見るのをとても楽しそうにしている。
 どうやら無意味に悲しませるという危険は回避したようだ。
 他の皆も勿論だが、この少女は笑っている方が良く似合う。
 そこに居るだけで空気が和らぐし、笑えばもっと温かいものに変えてくれる。そんな不思議な魅力がある。
 だから、これで安心して食事を進めていられると安堵したところに、同じ気持ちだったのか、口元をほころばせた茉子が楽しそうなことはに話しかけた。

「楽しそうね、ことは?」
「うんっ。なんや、親鳥になった気分や。お母さんってこんな感じなんやろうなぁ」

 ぐ、と飲み込んだものが喉に詰まった。
 同時に茉子がなるほどと頷いていた。

「確かに。丈瑠一人じゃ何にも出来ないんだから、世話してるあたしたちみんなお母さんってことね。………お嫁さんになる前にこんなに大きな子持ちか………」

 ぽんと流ノ介が手を打つ。

「言われてみればそうだな……そうすると私はお父さんということか! いや、それはさすがに恐れ多いがしかし……」

 呆れつつ千明。

「いやなんかズレてるし。でも……ま、それもなんか面白そーだな」

 彦馬が重々しく締めくくる。

「これ、殿で遊ぶでない。もっと優しく労わって接っさんか」

 酷い脱力感に襲われつつ呻いた。

「お、お前たち………」

 詰まったものを何とか通し終えてみれば、なぜか全員がしきりに頷いていた。
 頬に引きつるものを感じ何か言わねばと思うそこに、

「はい、殿様。あーん♪」

 生き生きとした様子でことはが箸を差し出してきた。
 表情は明るく、どう見ても楽しそうで、嬉しそうだ。
 迂闊なことを言うと、またこの顔を曇らせることになるのだろうか?
 そう思うと結局何も言えず、丈瑠は黙って口を開くことにした。
 この騒動が数日間続くのかと思うと気が滅入りかけたが、受け止めるのだって主君の務めのはず。
 楽しそうにしている全員を見渡し、こっそりと、一人息を吐いた。

 この気持ちだって多分、“今”があるからこそ受けられるものなのだから。


2009/09/05

月見花見 -ツキミハナミ-

赤黄っぽい感じで。
最近月が綺麗だったので、折角なので満月に合わせて。
殿がお酒呑めるかどうかは不明ですのでその辺は断腸の思いでねつ造です。違ったら申し訳ございません。
個人的にはお酒はそこそこたしなむ程度に呑める、呑ませ過ぎると笑い上戸になるのが期待。ずっとニコニコし続ける人みたいな。ほわほわと笑い続けてみんなをもっと虜にすればいい。予想に反して説教魔に豹変しても良いなぁとか妄想は続きますので割愛。

年齢事情は、千明とことは嬢以外は全員未成年ではないと信じてます。



- 月見花見 ツキミハナミ -


 泣くときは、これでもかとまでに泣いた。
 わんわんと声を上げて泣いて、両手を広げてくれる人を捜し求めた。
 思惑は見事に成功し、姉がめいいっぱい腕を広げて泣きじゃくることはを迎え入れてくれた。
 柔らかく頭を撫で、ぼろぼろと零れる涙を優しい手つきでぬぐって、そして暖かく背を叩いてくれた。
 その温もりに安心して、涙が止まっても泣いているふりをして腕にしがみついていた。
 勿論、そんなことぐらい姉にはお見通しだ。
 それでも黙って、しがみつくことはを抱きしめ続けてくれる。


 そんな、優しくて暖かい日の、夢を見た。


 薄暗い中ぼんやりと目を開き、ことはは布団から身体を起こした。
 周辺は静かでとても暗い。夜、それもまだ朝も遠そうな時間だ。
 今は何時だろうかと首を巡らせ、薄ぼんやりと見える時計表示で、自分が床についてから二時間ほどしか経過していないことが判った。
 日付が変わるかどうかぎりぎりの時間帯。
 ということは当然睡眠も二時間ほどなのだが、妙に頭はすっきりと冴えわたっていた。
 不思議だ。寝る前はなんだかとても眠くて、疲れもあるから早めに寝ようと、誰よりも早く床に就いたはずなのに。
 なのに、たったの数時間でばっちりと目を覚まし、寝る前の様子を思い浮かべれば思い浮かべるほど、眠気はどんどんと吹き飛んでいく。
 襖続きの隣の部屋からは、末子の寝息らしきものが聞こえる。
 起こしてしまわないようにとそっと布団を抜け、廊下へと足を向けた。

「ひゃ………」

 入って来た夜風に身震いした。
 秋も始まろうかというこの季節、朝晩の冷え込みはだいぶ厳しい。慌てて部屋へと逆戻りをし、衣装棚の中からカーディガンを引っ張り出す。
 少し暖かくなって、安心してことはは廊下へ出た。
 水程度ならば枕元に用意してあるが、今は暖かい飲み物が欲しかった。
 廊下は静かだった。
 もとより、志葉の屋敷は全体的に静かだ。それでも昼間は動き回る黒子たちの姿があり、静かながらもどこか活気に満ちている様子があった。
 それが今は無い。
 当然だ。いかに働き者の黒子たちといえども、夜中まで動き続けているわけではない。
 勿論、周辺の見回りや、夜中に起きた自分たちのために何人かが控えてくれているのは知っている。
 現にことはが廊下に出てすぐ、曲がり角の陰に座っていた黒子と会釈を交わしたばっかりだ。
 月明かりのみの暗い廊下を突き抜けて、台所へと。そこには灯りがついていて、中にいた黒子がことはに用件を尋ねてきた。

「なんや、目が覚めてしもて……何か温かいものもらえんやろか?」

 頷いて黒子は冷蔵庫から牛乳を取りだした。蜂蜜を入れるかどうか聞かれたので、有り難く入れてもらうことにする。
 出来上がるまでの間椅子に座ってぼんやりと待っていると、別の黒子が焼いたスルメを持って行くのが見えた。黒子たちが食べる、というわけではなさそうである。
 思わず呼び止めてどうするのかと尋ねてみれば、

「殿様と源さんがお酒を飲んではる……?」

 そのためのつまみなのだという。
 途端、好奇心が首をもたげてきた。
 彦馬ならば想像がつくが、あの殿様と源太である。自分の身近な人がお酒をたしなむ瞬間などなかなか見れるものではない。
 夜中に目を覚ましたという、何やら秘密の時間を楽しむような心境のまま、やっぱり夜中の楽しみを開いている人の様子が気になってしまった。
 別に誰に咎められるわけでもない、でもなんだかいけないことをしているような好奇心。
 その好奇心に負けて、ことははつまみを持った黒子についていくことにした。





「あれ? ことはちゃん、寝てんじゃなかったの?」

 普段と全く変わらない源太の口調だが、顔はほんのりと赤い。手には枡が握られ、中身は半分ほど入っていた。
 近くには持って来たらしい烏賊折神と海老折神の入った水槽。それと、一升瓶。
 並ぶように丈瑠が手のひらほどの、朱塗りの杯を持って座っていた。
 場所は見晴らしの良い縁側で、二人とも庭に向けて足を投げ出していた。

「うん、目ぇ覚めてしもて……。うちもちょっと、混ぜさせてもらってええですか?」

 了承の頷きを貰ったので、喜んで近づく。
 どちらに座ろうかなと迷い……結果、源太の近くは水槽があってとても会話をするのに邪魔そうだったので、空いていた丈瑠の隣に腰かけた。
 ことはが座ったのを確認して、黒子が先ほど頼んでいたホットミルクを持ってきてくれた。
 ほわ、とミルクと蜂蜜が入り混じった、甘く優しい香りがする。
 息を吹きかけ湯気を飛ばし、カップから伝わる熱を堪能する。縁側は結構肌寒かったが、ミルクの温かさがじんわりと身体に沁み込んでくるようだ。
 人心地ついてから、ことはは杯を重ねる二人に尋ねた。

「二人とも、何してはったんですか?」

 カップを両手で持って訪ねれば、二人とも無言で上を指した。
 指先につられるようにその方向を見れば、

「……満月……」

 暗闇の中に鮮烈な光がある。
 夜の澄んだ空気が、より一層月の輪郭を浮かび上がらせていた。

「綺麗だろ~? あんまりにも見事だったからさ、こりゃーちょいと早いがお月見しよう! って」

 中秋の名月と呼ばれる日は丸々一ケ月ほど先だ。
 しかし雲ひとつない空に浮かぶ月はため息が出るほど綺麗で光り輝いていて、今日がその日だと言われても納得しそうなほどだった。

「綺麗……なんか、うちらだけで見るの、勿体ないくらいや」

 見上げつつ言えば、升を片手に源太が笑った。

「今日は気付いたの遅かったからなぁ。来月はみんなでやりゃぁいいさ!」
「うん!」

 大きく頷いた。来月が今から楽しみだ。
 源太のテンションはいつも以上に上がっていた。顔はまだそんなに赤くはないが、枡を傾ける度に気持ち良さそうにしている。
 対して丈瑠は黙々とし、ゆっくり杯の中身を減らしていっていた。そのペースは源太に比べれば随分と遅い。だが、飲めないというわけではなさそうだった。
 酒を飲むより、月を愛でる方を好むのだろう。
 目線はさっきから月に向かっていて、心なしか口元も綻んでいる。

「いやぁ~、ことはちゃんが来てくれて良かったよ! 月見は良いけどさ、男二人で飲んでもつまんねーってーの? 景色とか。なぁ丈ちゃん?」
「………ああ」
「やっぱ女の子がいるとそれだけで華やかになるよな! 月見景色、贅沢になったなぁ!」
「………ああ」
「あ、そーいやさ、今度新ネタ考えてんだよ。月見限定バージョン。なんか面白そーなのどどーんと出すつもりなんだよ、期待しててくれっ!」
「………ああ」

 どうやら二人はずっとこの調子でいたらしい。
 丈瑠は、見た目では酔っぱらっているようには見えない。時折思い出したかのように杯を傾けるだけで、返事は平坦だった。一方的に源太がしゃべり続けているようだが、適当に思えるような相槌でも源太は気にしていないようだ。楽しそうに話しかけ、一人で盛り上がっている。
 それが何だかおかしくって………ちぐはぐなのに、妙にがち合っているようにも見えて、ことははくすくすと笑った。
 笑い声が耳に入ったのか、源太がますます上機嫌になる。

「ことはちゃんはお月見で何食べたい?」
「う~ん……やっぱりお団子!」
「定番だよな。団子寿司! 具を何にするかが問題だっ」

 どうやら月見団子寿司は確定らしい。
 楽しみだと伝えると、任せろ! と活きの良い返答が来た。

「二人はずっとこんな風にお酒飲んでたん?」
「いんや、時々な。滅多にないぜ? 丈ちゃんはイケる口なのにあんまり飲みたがらねぇし、俺も明日の仕込みとかあるから」

 つまり、今日はたまたまだということだ。
 そのたまたまに、自分は巡り会ったということになる。
 夜中に目を覚まして良かった、と思った。目が覚めたおかげで、丈瑠と源太、二人だけで楽しんでいた時間に自分が加わることが出来たのだ。
 無性に嬉しかった。
 だって、もし流ノ介がこれを知っていれば間違いなく晩酌に付き合っているはずだ。茉子は判らないが、千明はつまみを目当てと夜更かしの理由を掲げてやっぱりここに居座る。
 なのに誰も居らず、ここには丈瑠と源太のみ。
 誰も知らなかったことの中に、ことはは入ってこれた。妙にわくわくする。
 それでも、だからといえども何かが起こるわけではない。
 月見、と言ったとおり彼らは本当に月を愛でつつ酒を傾け時折つまみに手を伸ばすのみで、大げさに騒ぐわけでもゲームを始めるわけでもなかった。
 後はずっと、他愛もない会話が続いていく。
 源太がひたすらしゃべりまくっていて、ことははそれに反応して、丈瑠は時折短い相槌を挟む以外何も言わなかったが、誰も気にしなかった。月見でも花見でも、そこに輪を作る者たちが楽しんでいればそれでいいのだ。
 それもほどほどを過ぎたころ……ことはの手に持つミルクがだいぶ冷めるころに、源太が腰を上げた。

「さぁて、深酒になる前に寝るかー」

 そう言いつつも、顔はそれなりに赤い。ことはの見ている前で枡の中身は三回ほど入れ替わったはずだ。
 ちなみに丈瑠は二回ほどである。途中源太が強引に注いだので、正確な回数とは言えないのかもしれない。
 源太は顔は赤くとも足取りはしっかりしていた。水槽を抱え持つ仕草にも危なっかしさはない。
 強いが、すぐに顔に出るタイプというやつなのだろう。
 丈瑠が動く様子はない。だからことははどう動けば良いか迷ってしまった。
 お開きのようなのだが、丈瑠の視線は依然月に向いたままだ。

「ことはちゃんはどうする?」
「あ……ええっと、もう少し見てる」

 反射的に答えた。一度寝ているとはいえ、そろそろちゃんと寝なおさないと明日に響きそうだということは判っていた。でも、眠気を全然感じなかったのだ。
 言ってから失敗したかなと思ったが、源太は気にしなかったようだ。

「そっか、じゃぁあんまり遅くならないようにな」
「はい、お休みなさい」

 お休み~と笑いながら源太が返してくれるそこに、

「源太」

 初めて丈瑠が顔を動かした。
 立ち去りかけの源太の方を見て、短く言う。

「お休み」
「おう、そっちもな! じゃぁ明日な~」

 ひらひらと手を振り源太は去っていく。
 数秒見送って丈瑠を見上げれば、彼はもう月に戻っていた。
 そっけないような振る舞いに思えても、源太も丈瑠も、どちらも満足しているように見える。
 それはなんだか良いなと思えて、ことはの口元に自然と笑みが浮かんだ。

「どうかしたのか?」

 こっちなど見ていないと思っていたら、見られていたらしい。
 大したことじゃない、と首を振れば、それだけで丈瑠は納得してくれた。
 源太がいなくなり途端静かになった庭先で、無言のまま月を見上げる。
 居心地が悪いことはなかった。言葉もいらないくらい月は綺麗だったし、丈瑠の隣は不思議と落ち着く。しゃべる必要などなく、それでも相手はどうだろうかと気になって時折横目で盗み見ていれば、視線に気づいたのか丈瑠が話題を振って来た。

「眠れなかったのか?」
「いえ、ぐっすり寝てました。そしたら今度はぱっちり目が覚めてしもて。起きて正解やったぁ、満月なん、見過ごす所やった」

 笑って言えば、丈瑠は短く頷いてくれた。
 それがなんだか嬉しくて、ことはは言葉を重ねた。

「夢……見てたんです。寝てる時。うちがまだ小さい時で、よく泣いてはお姉ちゃんに慰めてもろおてた頃の」

 言うつもりは無かったのだが、月を見上げるうちにふと、無性に聞いてもらいたくなった。
 それが誰でも良いものなのか、丈瑠にこそ聞いて欲しいことなのかは判らないが、ことはは見ていて夢を語っていった。
 夢の中で感じたのは、姉の温もりと優しい笛の音色。
 暖かいそれに包まれて、何の心配もいらなかった頃の夢。
 久しぶりに見た姉の夢だ。懐かしい夢だった。
 姉と離れたのはつい最近のことなのに、もう何年も前のことのような気がする。
 そんな懐かしさに浸っていると、隣から気遣わしげな雰囲気を感じた。
 見上げれば、ことはでは何て言い表したらいいのか判らない、複雑な表情でこちらを見ている丈瑠と目が合った。
 あ、と思い慌てて言う。

「淋しくなったんやないです。ただ、お姉ちゃんどうしてはるやろって思って」

 自分の代わりに闘いに赴かねばならない妹を思って泣いてくれた姉。
 ごめんな、と何度も謝り続けられた。

「うちはどうもないって。届いとるとええなぁって……」

 見上げる、満月。
 見上げる場所は違っても、違う場所から同じものを見ていてくれるだろうか。
 手紙や電話、携帯電話にパソコン。
 伝達手段はいくらでもある。
 けれどそれだけじゃ何かが足りなくて、そしてそれにすがってしまうのも、何かが違う気がしていた。
 結局は、同じ場所にいて、同じものを見て、触れ合っていなければ相手の安否など本当には判らない。
 だからせめて、空に浮かびどこからだって見えるあの月ぐらいは、同じように見上げたのだと思っていたい。
 そう目を細めたところで、頭に何か重たい物が乗った。
 目線を上げると、大きな手のひらが頭に乗っていた。乱雑に動いて、そして最後に軽く小突くようにして離れて行った。
 不思議だ、とことはは思った。
 同じように頭を撫でてくれるものでも、姉のそれはとても気持ちが良い物で、柔らかい物を撫でるように撫でてくれる。
 茉子のしてくれる「ぎゅっ」は、姉とは違いはあるものの、良い匂いがして暖かい抱擁だ。
 どちらも、された後はとても嬉しくなる。
 丈瑠のそれは、二人とは比べ物にならないほどに乱雑だった。
 力加減が判っていないとも、少し腫れものを障るような空気すら感じる。
 それなのに、二人がしてくれるような優しさと、された後のどうしようもない嬉しさを感じて、暖かい気持ちになれる。
 とても、不思議。
 本当に、とても不思議。
 嬉しくてことはが笑えば、丈瑠も同じように笑い返してくれた。そのまま笑い合う。不思議と、触れていないのに抱擁されているように、胸の内がじんわりと暖められていく。ホットミルクのせいかもしれない。
 笑みを崩さぬまま、ふいに丈瑠が何かに気がついて言う。

「あぁ、そうか。………確かにこれは“花見”だな」
「?」

 なんでもない、と苦笑とは言い切れないまた違う笑みではぐらかされた。
 言い終わる頃には丈瑠の目線はまた月に戻っていて、追求する機会を失いことはも大人しくそれに倣う。
 無言と静寂と小さな虫の声だけになったが、やはり気にならなかった。
 並んで座り月を見上げる。静かだが心地の良い時間が過ぎていく。
 しばらくすれば、丈瑠がそれからそろそろ寝るぞと空の杯を置いた。遅れてはいけないと、ことはは慌てて冷めたミルクを飲み干した。
 随分と冷えてはいたが、蜂蜜入りの甘さと香りはことはを幸せにしてくれる。蓮華の匂いがして、季節は秋になろうというのに春を匂わせた。
 丈瑠の言った花とはこのことだろうかと思ったが、尋ねるまでは無いことだとも思った。
 名残惜しげに最後に月をもう一度見上げた後、中身が空になったカップを黒子に預け、ことはは頭を下げた。

「殿様、お休みなさい。また明日」

 あぁ、と上から声が降ってくる。低いけれど落ち着いた声。心地の良い声。

「毎回やなくてええけど、良かったら次も誘ってください。お酒は飲めへんけど、うちもこうやってお月見したい」
「夜更かしにならなければな」

 苦笑付きではあったが、丈瑠が承諾した、そのことにことはは喜んだ。
 こんな嬉しい気持ちのままなら、眠気は相変わらずなくても布団に入ればちゃんと眠れる。そんな予感がする。
 月ではなくことはを見て、丈瑠が言った。

「お休み」

 はい、ともう一度頭を下げてことはは自室へと向かう。
 自分が立ち去るまで見送ってくれる視線を背中に感じる。それもまた、無性に嬉しいことだった。
 最後に月を振り返り見て、満足げに、ことはは部屋への足取りを軽くしていった。



2009/08/30

お世話をさせて!  前篇

十臓さんとの闘いで負傷した殿と、殿のお世話をしたいみんなのお話。
オールっていうか殿総受という表記が最も正しい気がします(笑)。
色々はっちゃけたのでとても長くなり、前後篇に分けさせていただきます。
………前篇は茉子ちゃんが一番はっちゃけてくれました(苦笑)。



-お世話をさせて!  前篇-


 風呂に入ろうと思ったら、脱衣所まで流ノ介がついてきた。

「……なんだ?」

 はっ、と彼はその場で膝をつき頭を垂れる。

「畏れ多くも、殿の湯あみのお手伝いに参りました」
「いらん」

 即座に返したが、頭の固い家臣は言い出したら聞かない。

「いいえ、殿。お言葉ですが、そのお怪我では満足に身体を洗うどころか、着衣すらも難儀されております。ここはこの流ノ介にお任せください!」
「いいと言っている。そういうのは黒子が……」
「いいえ、私めにお任せを!」

 本来ならば、丈瑠の怪我はまだ風呂に入るのを許されるものではない。
 何せ、ただの刀傷だけならまだしも、肩の傷に至っては穴が空いているのだ。
 刀が貫通した右肩には、ぱっくりと綺麗なまでの傷口が出来ている。腱も骨も切ってなかったのだけが幸いとしか言いようがないほど、見事な傷口だった。あまりにも見事過ぎて、彦馬がうなり声を洩らしたほどである。
 不和十臓。
 その名を持つ者が、いかに強敵であったのか。
 それとも丈瑠自身が、大事な部分を避ける身のこなしを持っていたのか。
 真相はどちらとも言えない。言えるのは、縫合したばかりの傷に水気などご法度物だということだ。
 全ての治療を終えた後、暫くは気を付けるようにときつく言われたばかりだった。
 しかし、季節は夏。
 座っているだけでもじっとりと汗を掻くこの季節に、ただ水気を湿らせた布で身体を拭くだけなど耐えられそうになかった。
 傷口には湯が当たらない程度にかけ流そうと思ってやってきたのだが、よりにもよって口うるさい流ノ介がついてくるとは。
 しかもどうやら、湯あみをするつもりだったことがしっかりとばれている。
 苦い思いで追い返そうとするも、比較的軽症の左腕一本で太刀打ちできるわけもない。
 妙に押しの強い力で押し切られ、脱衣所に押し込まれた。

「流ノ介っ、いい加減にしろ!」
「いいえ殿、御覚悟を! ―――失礼!」

 後はもう、抵抗など無意味のようにあっという間に服を脱がされ………そして何故か、水着を着せられ風呂場へ放り込まれた。

「殿、御武運をっ!!」
「待て流ノ介、なんだこれは!?」

 抗議するも、風呂場の戸は無情にも閉められた。しかも向こう側からしっかり指で押さえられているのか、片腕では到底開きそうにもなかった。
 その、檜の戸の向こうから流ノ介の声が聞こえる。

「殿! 私はここで待機してますゆえ、何かありましたらすぐにお呼びくださいませ!」

 湯あみを手伝うと言っていたから、てっきり風呂場にまで付いてくる気なのだと思っていた。しかし風呂場に入ったのは丈瑠ただ一人で、流ノ介は脱衣所を陣取っている。
 単純に、着衣を手伝っただけのようにも思えるが、だとしたらなぜ水着を履かせられるのだろうか。
 いきなり疲れたような気を感じた丈瑠の背中に、あり得ない声がかかった。

「は~い、一名様ご案内~! なぁんて、ね♪」
「!?」

 聞こえた女の声に、心底驚いて丈瑠は戸に張り付いた。
 振り向いた先に、湯煙に浮かび上がる細い肢体が見て取れる。

「ま、………茉子、なんでここに!!」

 思わず叫んだ。力いっぱいの問いかけは肩の傷に障ったが、痛みよりも驚愕の方が遥かに大きい。
 茉子は普段は絶対見ないような、タンクトップに短パンという軽装に、濡れないようにか髪をアップまとめたという妙にアクティブな格好でそこにいた。顔は満面の笑みが浮かべられており、戸に張り付いた丈瑠を手招きしている。

「はいはい、そんなとこ張り付いてないでこっちいらっしゃい。茉子せんせーが、身体洗ってあげるから」
「い、いらんっ……」

 拒もうにも、流ノ介のときのように力任せで振り切るわけにはいかない。
 つい目線がむき出しの腕や足に向きかける丈瑠の様子を気にもせず、末子はにっこりと近づいてきた。
 普段、末子はあまり素肌をさらすことはない。夏場でも足首まで覆うような服を好んで着ているのだ。
 気にしたことはなかったが、いま目の前にあるのは普段覆う部分を極端に少なくした格好である。意識するつもりはなくても意識してしまう。

「ほらほら~。我儘言わないで、大人しくこっちいらっしゃい。安心していいわよ、こーいうの、ちっちゃい子で慣れてるから!」
「そんな問題じゃないっ」

 伊達に幼稚園でアルバイトをやっていただけはない。
 終始落ち着かない子供たちを相手にしてきたのだ。茉子からしてみれば、怪我をして身動きが取りにくい成人男子一人、手がかかるわけもなかった。
 だがそんなことを言われて何を納得しろと言うのか。
 御武運を、と戸を閉めた流ノ介を恨めしく思う。水着もこのためかと納得したが、だからといえども許容するつもりはない。
 戸に張り付いたまま臨戦態勢を取る丈瑠を前に、茉子は変わらぬ笑顔のままで、

「丈瑠? あんまりおいたが過ぎるようだと、合成洗剤を泡立てたの包帯にぶっかけるわよ」
「茉子! 殿になんてことを言っているんだお前はっ!」
「じゃぁあたしが丈瑠の着替えを手伝ったりして良かったのね、流ノ介?」

 この一言に、流ノ介と丈瑠は大人しく茉子の言うことに従うことにした。
 酷く痛い目を見てから恥を知るか、恥だけを知るかの二択なのだ。後者だけの方が、傷が少なくて済む。
 志葉の家に揃っている洗剤類は、無添加のものが多い。
 これは茉子を含め、家臣四人がこの家に住み込むと決まった最初のときに、ことはと一緒に驚いたものだ。
 最初こそ、シャンプーもリンスもないこの家の水場事情にどうしたものかと思ったが、今となっては納得していた。
 合成洗剤の類は、傷口に酷く沁みるのだ。
 今、末子が泡立出るのは無添加の石鹸だった。不思議なことに、これだと目に入っても痛みが少ない。そして、傷口に与える影響も少ない。人体に害を及ぼす要素が少ないのが特徴だ。口に入れても害はないという。
 外道衆との闘いで、どうしたって生傷をこさえることの多い中、ささやかそうに見えるがとても大事なことだと今更ながら痛感していた。
 特にこんな、大怪我をした相手を見ていれば。
 丈瑠の身体にある傷は、大小を合わせて結構な数だった。一番ひどいのはもちろん右肩だが、足場の悪い岩場で闘っていたせいなのか、あちらこちらに裂傷も見て取れる。
 包帯が巻かれた部分には厚めにタオルを乗せ、その付近に水が行くことが無いようにと、たっぷりと泡立てたそれで短い髪を洗う。

「丈瑠? 痒いところあったら言ってね。傷や目に沁みてもちゃんと言うのよ?」

 吊った腕、そこまで満たない分だけ湯を張った浴槽に身を浸し、縁に乗せられた頭、それを丁寧に洗いながら言えば、丈瑠からは普段よりも極端に短い首肯だけが返って来た。
 相手が気のりではないのは最初から判っている。
 丈瑠は頑として、身体を洗わせるのを拒否した。右腕は使えず、左手だって負傷しているそんな状態でどうやって身体を洗うのかと、茉子にしてみればものすごく不服ではあったのだが、丈瑠はまず茉子を無理やり外に押し出し、痛みを押し殺して自力で洗い始めた。ようやくの入室が許された茉子が手伝ったのは、やはり怪我をした片腕だけでは難しかったらしい背中と、気をつけねばならぬ湯を掛けるときだけ。
 意地っ張りだなーなんて思ったが、色々と恥ずかしいのだろう。
 その代り、髪は全面お任せだ。両腕が無ければ洗い辛く、怪我をかばっていては加減が難しい。それでも随分と不承不承という形であった。
 最初から全部任せてくれれば良いものを、と思ったが、殿様といえどもやはり普通の男子でもあるのだ。不服だが、少しぐらいはこっちが許容する必要だってあるだろう、と思い、戸の向こうで待機している流ノ介の口添えもあって、茉子もここらで妥協することにした。
 わしわしと頭皮を洗いながら、主君の顔を見れば、彼はどうやらふてくされているようだった。
 どうにでもしてくれ、と丸投げに言っているようにも見える。思わず茉子は笑った。
 その笑い声が聞こえたらしく、丈瑠はますます不機嫌そうな様子を作っていく。

「そんなに不満? 尽くされるのが」
「そういうわけじゃない。ただ、落ち着かないだけだ」

 怪我を気にされるのは、仕方のないことだと思う。だがそれを原因に過剰に反応されるのは丈瑠の由とするところではない。
 腕を動かす茉子から、嘆息とも苦笑とも取れない息が聞こえた。

「いいじゃない。心配ぐらいさせてよ」
「それは……」
「あたしたち、丈瑠が負けるなんて思ってなかった。少しもね。絶対勝つって思ってたわ。でもね、ここまで酷い怪我をするなんてのも、思ってなかった」
「………」
「血だらけで何とか立ってた丈瑠を見たときの、あたしたちの気持ち……判る?」
「……十臓を相手に、これだけの怪我で済めば僥倖だ」

 言いわけなのは判っている。
 刺し違えるつもりだった、なんて思いで挑んだわけではない。
 けれど、怪我は前提で挑んだ。下手をすれば二度と自分が刀を握れないのだって、覚悟していた。
 それほどの覚悟が無ければ闘えない相手で。
 それほどの覚悟が無ければ、切り結ぶなど考えられない相手だったのだ。
 敏い茉子のことだ。
 そういった考えまで見透かしているだろうが、反論が来ると思いきや意外にも返って来たのは「そうね」という短い同意の声だった。

「怒らないのか?」
「そこで怒るんなら、最初から流ノ介と一緒に止めてたわよ」

 茉子は丈瑠を止めなかった。それどころか、丈瑠が行くことに賛成を示した。
 それは勿論、街の人を守るという意味もあっただろう。
 しかしそれ以上に、十臓と相対する丈瑠の意思と、丈瑠に執着する十臓の意志の両方を汲み、そのうえで納得して出した答えのように思える。
 でも、と腕を動かしながら茉子は続けた。

「止めなかったのと、心配しなかったのとは、別。相手が十臓だから、不安に思っていたんじゃないの。丈瑠一人で行かせなきゃいけなかったから………一人で戦っているって知ってるのに、傍で見ることもできなかったから、それはちょっと悔しくって、それで凄く心配した。流ノ介が止めたがっていたのもきっとそこなのよ」

 それはまるで、戸の外にいる流ノ介にも改めて言っているようだった。
 聞き耳を立てているであろう相手は、何を思って聞いているだろうか。
 思わず窺うように上を向いた丈瑠に、だからね、と茉子は髪を洗う手を緩めた。
 見上げてくる丈瑠を覗き込むようにして、

「心配させた分だけ、大人しくあたしたちにお世話されなさい。せめて右腕が動かせるようになるぐらいまではね。大したことないでしょ?」

 敢えて悪戯っぽく言う。
 そして、そんな言われ方をされて、家臣想いの丈瑠が返す言葉を持っているはずがなかった。
 茉子の主君は沈黙のまま視線を下へとずらす。
 肩を落とすその憮然とした様子に、茉子はますます笑った。





 風呂から上がった後、用意されていた着流しを丈瑠の袖に通しながら流ノ介が説明した。
 曰く、着付けの心得のある流ノ介が着衣の手伝い、子供を相手に風呂やプールに入れたことのある末子が入浴の手伝い、あれでいて意外と繊細な千明が食事の手伝いで、姉から怪我に効く薬湯を教えてもらっていると言うことはが治療の手伝い、だそうだ。源太は屋台寿司の仕事があるため常時いられるわけではない。そのため、出来るときにやることをする、という位置づけらしい。 

「まったく、先に一言説明ぐらいしろ」

 放り込まれた風呂場に人が……しかも家臣といえども女がいたのだ。これを慌てずしてどうしろというのか。

「申し訳ございません……。しかし茉子が、事前に知らせていたら絶対嫌がって入ってこないだろうから、と」

 それはそうだろう。これが流ノ介や千明でも十分嫌がるはずだ。別に末子がどうこうという意味ではない。ただ心臓と精神的に、とても悪いというだけだ。

「お前たちの気持ちは判った。だが茉子は外してくれ。言っておくがことはもだ」

 風呂の件をさしていえば、思う所があるのか流ノ介もやや赤面しつつも渋い顔を作り頷いてくれた。

「は……。ならば千明と相談して決め直します」

 そうしてくれ、と風呂に入る前以上の疲労感を感じながら自室へと足を向ける。
 当然のような顔でついてくる流ノ介には何も言わず、開けられた戸の先に居たのは果たして、ことはではなく千明だった。

「よっ、さっぱりしたじゃん」
「千明? ことははどうしたのだ?」

 ことはが薬湯を抱えて丈瑠の部屋で待っている手はずだったはずだ。だが部屋を見渡せど、少女の姿はない。
 あー、と気だるげに座り込んでいた千明が、思い返しながら言う。

「いや……ことはがさ、すっげーやる気だして薬の準備とかしてたんだよ。あちこち走り回って、丈瑠が出てくる前に準備終わらせるんだっつって……」

 そこまでの説明と、言い辛そうな千明の顔から、丈瑠と流ノ介は納得した。

「また、こけたか……」
「それもまた盛大に、か……。怪我はしたのか?」
「板張りでつるってなー。膝を少しすりむいてたみたいだけど、そんだけだな。あと自分で作った薬湯を頭から被って酷い状態だったから、帰らせた。俺と交代」

 情景がありありと思い浮かんでしまう。
 以前、千明に打ち身に良く効く薬を作って塗ろうとしていたが、あの時も滑りこけた上に薬をぶちまけて、自分ひとり盛大に被害を受けていた。
 張り切り過ぎてやってしまったのだろう。
 擦り傷程度と聞き、丈瑠は思わず安堵の息をついた。ことはがまれに発揮するドジっぷりは見ていてはらはらすることが多い。少々の物ならば愛嬌で済まされるだろうが、生傷が絶えない様子は不安だ。
 本人も、気を付けるようにはしているようなのだが、なかなかうまくいかないらしい。

「相当落ち込んでたみたいだからさ、明日フォローしとこうと思う。今日は姐さんに任せようと思ってんだけど……姐さんは?」

 問いかけに、二人は揃って微妙な空気を出した。
 丈瑠が浴槽から出た後、髪も服も湿気で湿った茉子は、そのまま女子風呂へと直行したのだ。
 冗談なのは判っているが、最初は「このままここで入っちゃおう」などと言い出したものだから、流ノ介と二人、慌てて出てきたのだった。
 二人のその不自然な様子に気づいたのか、千明がやれやれと肩を落とす。

「そっちはそっちで大変だったみたいだな……。ま、さっさと包帯替えちまおうぜ。無事だった薬もあるからさ、塗りなおしもしてやるよ」





 三角巾を外し、包帯を解いていくと、段々とその傷の凄惨さが浮き彫りに出てくる。
 分厚く張られたガーゼには薬がたっぷりと沁み込ませてあり、その薬の色で染まっていた。
 縫合が終わった傷口からは、今はもう血はこぼれていない。
 手当てを代わって正解だったな、と思った。
 ことはに、あの心優しい年下の少女に、こんな傷は見せられない。
 岩場で千明が見たときは、丈瑠の右腕は鮮血に染め上がっていた。
 無茶しやがって、と思ったが声には出さなかった。
 この丈瑠が、無茶をしない時などあっただろうかと思うのだ。
 最初は気付かなかった。この志葉丈瑠という主君は、常に自分の何歩も前を行き、到底届かないほどの強さと余裕を持っていたから。
 越えてやるのだと思った。
 こいつを超えて、前を歩いてやるんだと。
 目標として定めたその時から、千明はずっと丈瑠の背を見てきた。
 悠然とたたずむ背。強さを象徴する腕。自分では見えないものを見定める眼差し。
 それを、ずっと。
 だから判る。
 丈瑠の強さも、弱さも、到底計り知れないものではないのだ、と。
 丈瑠にだって限界が存在する。だがそれが見えにくいのは、限界ぎりぎりの中、それ以上の力を丈瑠が出そうとするからだ。
 今まで、千明はそれに気付けなかった。
 ただただ目の前に立ちふさがる大きすぎる山を、見上げるだけで精いっぱいだった。
 でも、最近は少し違う。
 強さの根底にあるのが何か、強さとは何か、自分はどんな強さが欲しいのかが、胸の内で容づけられてきた頃から……少しずつ、見上げていた山の形も、一緒に見えてきた。
 見えてきたから気付くことができた。
 千明の主君はとても強いけれど、同時にとても弱い部分だって持っているのだということに。
 そう気づいてから、ふいに千明は自分の心が軽くなっていることにも気づいていた。
 思うのだ。
 なんだ、と。
 めちゃくちゃ強いように見えて、丈瑠だってただの人だ。
 実に些細なことで怒るし、明らかに拗ねている時だって見たし、笑うのだって見た。
 それは僅かではあるが、それでも千明は確かに見た。見たから、知っている。
 志葉丈瑠はただの人である。そこに余計な付属がついてくるだけで、何かが変わるわけではない。
 その中で、志葉丈瑠というただの人は、付属を物とも思わないだけの努力を積み重ねてきた。
 千明が最初に見たとき、その努力は見えなかった。見えなかったから、全容などさっぱり判らないでかい山としか思えなかった。
 でも、今、千明なりの努力を……それこそ誰の足元にも及ばない遅々とした他愛のない努力をしてきた今、ようやく山の大きさが見えてきた。
 見えてきたから、丈瑠という存在を、なんだ、と思えるようになり。
 見えてきたからこそ、丈瑠の持つ強さは、重ねてきた努力と限界を破ろうとする無茶くちゃさ、その両方からきているものだと気付くことが出来た。
 だから千明は言ったのだ。
 丈瑠はそんな無茶をするから。
 だから、十臓には、絶対に負けるはずがない、と。

「……………」

 今、千明の前にある背や腕には、今回の件で出来た新しい傷のほか、旧い傷も見て取れた。
 目立たないような、もう薄くなっているほどの傷だ。大半は恐らく刀傷で、目を凝らさないと見えるかどうか。
 ふいによみがえるのは、彦馬の台詞だ。
 丈瑠はずっと独りで戦っていたという。
 家臣である自分たちを呼ばず、たった独りで渡り合ってきた。
 呼べば、それぞれの日常を奪うことになるから。
 ぎりぎりまで、それをただ独りの腕で護り通させてきた。
 そんな相手を、千明は目標としている。

「千明?」

 じっと旧い傷を見ていた千明に、丈瑠が訝しげに眉を寄せた。
 なんでもねー、といつもどおりにぶっきらぼうに言い放ち、手当てを再開する。
 何となく察したのか、ぽつりと丈瑠が口を開いた。

「……昔、ヘマをしたやつだ」
「ふーん……」

 人体の傷は、若ければ若いほど回復が早く、かつその傷跡も残りにくい。
 だが刀傷となると話は別だ。それは実にあっさりと肌に食い込み、そして皮膚も筋肉も神経すらも切断し、いつまでもその跡を残し続ける。
 丈瑠の言うヘマは、どれぐらいの昔におこしたヘマなのだろうか。
 訊いてみたい気もしたが、それよりも手当てを優先させた。
 越えてやる、と。
 その思いだけをさらに強く感じながら。
 丈瑠は、千明が手当てをするのを嫌がるかと思いきや、少しも嫌がらなかった。
 どうやら風呂場でよほど疲れたらしい。
 気のせいか、いつもはしゃんと伸ばされている背が、心なし丸い。
 みんなで分担を決めていた時の茉子の表情を思い出して、千明は丈瑠に同情した。
 茉子のダメ男センサーは、どうやら大怪我を負った相手にも発動するものらしい。

「ほい、終わりっと。あとこれ飲んどけよ。ことはが作った痛み止めの薬湯! 無事だったヤツな」

 薬を付け、ガーゼを張り替え、真新しい包帯を全て巻き終え、最後にきゅっと小さく結び目を付ければ手当ては完了だ。
 ついで、ぱしんと目の前にある背中を叩いてみせれば、運悪く傷にクリーンヒットした。
 あ、と思う千明の前で、丈瑠が痛みに背を丸め、さすがに強く避難じみた眼差しを向けてくるのに、

「悪ぃ!」

 内に抱えていた想いと共に笑い飛ばすように片手を上げて、千明なりに精いっぱい謝って見せるのだった。



後篇に続く。