May 03, 2018

こんにちはこんばんは。
ここはdeluz&odagger他による何でも駄文倉庫です。
いないとは思いますが小高の消息が知りたい方は
右バナー「咎メントの鈴」から飛んでみてください。

※このブログで公開していた『サクラガイノシマ』と『蛍石の丘』それから『幻想芸術家』は諸事情により削除しました。検索してくれた方、ありがとうございます。

July 12, 2016

         遅刻ノート


その日、経団連本社ビルのような偉そうなビルに、世界の経済界を代表する人物が集結していた。
「皆様。今年に入って生じている自体が、全くもって不可解な事象であることは言うまでもないでしょう。今、世界中で遅刻者が大量に発生しているのであります。皆様。これは既に調査により、ストライキやサボタージュとは全く関わりがないことが判明しております。具体的に言えば。勤勉な中堅社員が出社中事故に遭い、示談することになったという理由で遅刻をします。かと思えば、バスが来なかっただの、犬に噛まれただの、意味不明な理由で遅刻をしてしまうケースが起こっているのです。不可思議なことに、この事態は、発生している企業とそうでない企業が明確に区別されているということなのです。ここに我々としましても、これが自然現象ではなく、何らかの意志が働いているのではないかと疑わざるを得ません」

議長が拳を振りかざしながら唾を飛ばしている放送は、世界中の警察、国家へと流されている。

「なぜか遅刻する」

世界がこの謎の現象と直面し始めた頃には少なくとも世界に一人、この謎の事件の真相を知る者が存在し、彼はその中継を、優越感に満ちた表情で見ていた。

2016年には、日本社会は大混乱に陥っていた。何しろ、出社時間に誰も来ないのである。それも日によってあやふやで、つかみどころがない。
遅刻をいちいち注意しても埒が明かず、ついには遅刻を解禁する企業が登場すると、世論も盛り上がりを見せた。
「こういった事態にですね、柔軟に対応することも、ひとつ、肝要であるかということをですね、適時適切に判断すべきかと」
という世論に対しては、一言で言えば、「社会人として示しが付かない」という意見である。

そして世界に神は君臨した。

ある日、東村は出勤途中の道を走っていた。
目が覚めた時、出勤時間の5分前という、時の神クロノスでもない限りどうすることもできない致命的な状況だった。
家を出る時、電話を入れた。既に定時1分前だった。「しょうがねえな」と言われた。
ふと、走るのをやめた。どうせ間に合わないのだ。5分10分早く着いたところで「遅刻者」になるのは免れない。

遅刻ほど、弁解の余地のない罪も、ないものだ。いかに自己管理をしていようと、どうにもならないこともある。
何しろ、時間の話である。過ぎてしまった時間はどうしようもないではないか。あるいは、遅れた時間分を退社時間に働けばそれですむような話ではないか。まったく、どうにかしている。遅刻をしない奴というのは、頭がおかしいに違いない。

東村は道に、ノートが落ちているのに気がついて、それを拾い上げた。
「…遅刻ノート!?」
 なんだこりゃ、と思い、めくってみる。
「使い方……。1、このノートに名前を書かれた者は遅刻する」
 くだらなすぎるだろ……。
「対象は個人、企業、国家を問わない。また、遅刻の状況を指定することもできる。この時、対象が絶対に取り得ない行動だとしても、ノートに記せば必ずその通りに、遅刻する」

 あまりのくだらなさに若干引きつつ、これは面白いなと想った。遅刻の状況を指定することができるというのも、面白い。
たとえば極端な話、「5月1日正午アメリカ合衆国大統領が核弾道ミサイルを発射する予定だったが遅刻して定刻遅れで発射した」
とでも書けるということではないか。

まったく、世の中にはデスノートなんてのもあるくらいだ。遅刻の神様がいても不思議ではない。
東村は社につくと、さっそく上司の名前を書きなぐってやった。遅刻の状況は下痢にしてやった。

さて翌日。やはりというべきか、当然というべきか、その上司は朝礼の時間に姿を見せなかった。
これはいよいよ本物だぞ。念には念を入れて、5人ほど名前をノートに書いてやった。
理由はどうするか?これは問題だ。まず「ヤクザの事務所に殴りこんだため」。「パズドラのやり過ぎ」「自分では間に合ったつもりだった」
「冬休みだと想った」「午前と午後を間違えた」まあ、こんなところか。

さて翌日……。
「何だ。5人も来てないじゃないか」
 教師が呆れている。ヤバい。これは・・・本物か!?となると、木村、ヤクザの事務所に殴りこんだのか!ヤバい、笑えてきた……。西村何か、冬休みと勘違いして今頃寝ているのか……。これは面白いな……。
 午後になって木村が遅れてやってきた。さすがにボコボコにされているというわけではないが、それとなく聞いてみた。「木村、遅かったな、どうした?」
「いや……、電車でヤクザが因縁つけてきてな……その、事務所に行くことになって……、いや、いいんだ」
 これは……!遅刻ノート……本物だ! 
 大変だ。とんでもないものを手にしてしまった……。誰でも遅刻させることができてしまうノートなんて……。
こんなものは不幸しか生まない……。俺はひとに遅刻をさせて、それをほくそ笑んで喜ぶような手合じゃないのに……東村はそう想った。
 いや、待てよ……。発送を逆転させるんだ……。人に遅刻をさせるんじゃない、皆に遅刻をさせるんだ。遅刻が当たり前の世界……。そう。それは俺の夢でもあったじゃないか。毎日満員電車に駆け込むこともなければ、ストレスで電車に飛び込む人も少なくなる理想の遅刻世界……。俺にしかできない!東村は誓う。新世界の、遅刻神になる!しかし、その決断は普段より5分遅かった。


 新世界の神になろうと決めた東村は、やはり遅れてそのうんざりする前途にうんざりした。
「一日にどれだけの企業名を書かなければならないんだ?国外の企業リストなんか、どこにあるんだ。うわあ。やめようかなあ」
 何しろ、新世界を作ると決めた日に仕事を辞め、失業保険の申請も忙しいのである。
「こんなに報われない仕事もないもんだ。いや、神なんていつの時代もそういうものだったのかもしれない。
 それに。
「死神は来ないのか!死神は」
 遅刻しているのだろう。


政府緊急対策会議が行われるのも、マンネリ化してきた。
政府の役人や大学教授が集まっている。
そこにまた一人遅れて現れる。
「すいません。猫が死にまして」という言い訳を口にした。
「ったく…」
「今度は死なない猫を飼うことだな」
議長がニヤリと笑みを浮かべて皮肉を言った。

会議の進行役が口を開いた。
「今回の調査により皆様に報告させていただきたいことがございます。お手元の資料を御覧ください」

会議の出席者からざわめきの声が上がった。
「これは……」
「神だと」

進行役が言う。
「これは主にインターネットを中心に自然発生的に誕生した存在です。今回の事態はこれはもはや
神が我々に遅刻していいよというメッセージだと捉え、一部の民衆からは救世主などと呼ぶ者も現れています。大きな動きには至っておりませんが、
呼ぶものはその存在を『チコ』と呼称しています」
一部で笑いが起きた。
「そしてもう一点。あえてチコと呼びますが、チコが日本に実在するのではないかという噂があります。これはかねてより取り沙汰されておりましたことですが、諸外国と比べて、日本の企業の遅刻被害が圧倒的に多い。これは何らかのメッセージとも取れるということですな。もっと言えばデスノートは日本にあったという前例がある」

会議の出席者からは「参ったな」「前例が前例だな」という声が上がる。

「こちらから打って出ることはできないだろうか」と一人が口を開く。
「たとえば、どんなだ」隣の出席者が応じる。
「知りませんよ」
「遅刻者が最初に増えたエリアを探るとか。これ、重要でしょう」
「俺の仕事じゃない」
「ところが、俺の仕事なんです。チコ捜査本部背任」と出席者の一人が言った。彼の名は神林といった。

 数日後、日本警察、チコ捜査本部が発足していた。
「なかなか、やりがいの有りそうな仕事じゃないか。神を探すなんて」
「神林さんは、楽しそうですね」と言ったのは、橋高という刑事だった。
「楽しいだろう?命の危険もなさそうだ」
「アリ派ですか?ナシ派ですか?」
「?」
「チコの存在ですよ。誰に聞いたって、アリですけどね……」
 遅刻ができるなら、それに越したことはない。社会は遅延証明で回っているのである。神林は、そう思った。
「まあ、そうだろうな……。異論はないよ」
 捜査本部の中心にあるデスクに座している幹部がそれを咎めるように言った。
「そんな話は謹んでくれ。冗談でも駄目だ。ツイッターが騒ぐ」
「どうも、部長」と神林。咎めるように言ったのは、捜査本部長の吉田である。
「楽しくもないぞ。高校の出席データ集めとか、雲をつかむような話だ。いまのところはな」
「進展はあるのですか」
「ある高校で5人が遅刻してきたクラスというのがあったが、どうかな」
「FBIが暗躍したりってのは、遠い世界ですね」


しかしこの翌日、世界が驚愕した。

「なんだこれは!ディスプレイが乗っ取られてるじゃないか!」
 捜査本部のパソコン、テレビが何者かに侵入され、リアルタイムで音声が流れ始めたのである。
「こんなことがあるのか…おい!テレビに何か映るぞ!」

『私はチコです』
東村は我慢できなかったのだ……。自分が神であることを叫ぶことに!

「マジか」
「マジです。このチャット回線を警察の回線に繋いでおきました。さて、証明してみせましょう。ウィンドウをご覧ください。今山手線が遅れています」
「神様もウィンドーズを使うのか?」
「二度は言いません」
「うーむ」
「これは警告じゃないか。山手線が遅れたということは、チコは好きな時間に遅らせられる可能性がある!」
「そのとおりです。これは、人質だとお考えください」
「人質!?要求は何だ!」神林が登場して叫んだ。
「傍観です」
「傍観だと!?」
「私は、チコとして世界を遅刻のない世の中にすることが目的です」
神林は神との直接対決に感激しつつ言った。「いやに聴き分けがいいな。だから、要求は何だ!」
一呼吸置いて、チコは言った。
「そいつはまずいなあ。あいつ、本気でとんでもないアイテム獲得してる」
「まさか、核か?」
「操作すればいつでも押せるらしい」

「おい、全局チコの同時配信だぞ」
「凄いことになってるぞ」

「日本に要求します。私を支持するかどうかの各国の意思をまとめてください。そのうえで裁きを下すとします。曖昧な表現はやめましょう。私を支持しない国には核の危機があります。世界は危機的状況にあります。都合のいい言葉を使えば、テロだと取っても良いでしょう。世界の創造に協力するかしないか、世界は、あなた達の意志に委ねられているのです」


「日本 代表国へ」
「遅刻犯人 全世界投票を要求」

「一夜明けまして、各国の状況が入ってきております。木村さん」
「はい。まずは、アメリカはチコを支持する模様です。繰り返します。アメリカは、チコを支持します。これに関連諸国もならうかたちで、ロシア、中国、オーストラリア、フランス、イギリスすべてがチコを支持します。今のところチコの要求を受け入れない国は、ありません。」

「当たり前だ!核が降ってくるんだぞ。チコを支持するかどうかなんて、こんなくだらない議論はない。断れば核なんだ」
「何も特別なことをする必要もないんだ。特別な立法もいらない。ただ少し、タイムスケジュールが狂っているだけだ」

チコ対策本部
 橋高が、コーヒーを片手に神林に話しかける。
「どうなるかと思いましたけど、みごとにチコに世界は屈しましたね」
 神林は世界地図が表示されたパソコンのディスプレイを見つめながら言った。
「まったくだ。中東も欧米も綺麗なもんだ。北朝鮮も北、南。世界は同じ敵を持つと結束するんだな」
「ただ……、あの国があります」
「ああ……あの国がな」
 部長の吉田がキリッとした表情で割り込んで言った。
「チコは核爆弾を使うと言ってる。それは歴史上みても大変な事態だ。ヒロシマ・ナガサキに次ぐ惨劇が起ころうとしているんだ。だが忘れてはならない。『あの国では朝の5分は命より貴重なのだ』」

 その日、NHKでニュース速報のテロップが表示された。その内容に、日本中は衝撃を受けた。
「木村さん。今、速報が表示されていますが」
「はい。聞こえますか。音声は。日本は!日本はチコに従わない模様です!未確認の情報ではありますが、日本はチコに従わない、という意思をしたのではないか、という情報です」


「官房長官!」
 この速報を入手した記者は首相官邸に現れた官房長官に食って掛かった。しかし官房長官は何も言わず立ち去る。
「お前何考えてるんだ!!」
「チコと敵対するつもりか!!」
「東京に原爆が落ちてもいいのか!」
 この日、国連から正規不正規を問わず世界中から多くの圧力が日本政府にかけられた。

新宿ALTAのTVモニターを見上げて人々は口にした。
「日本だけ対抗って…マジかよ」
「何考えてんだ」
「たかが遅刻だろ……」

 テレビ番組はその日CM無しでこの情報を伝え続けた。
「木村さん。なにか新しい情報は入っていますでしょうか。」
「日本がチコに従わないのかどうかを含め、なぜ従わないのか、そこにどんな思惑があるのか、ないのか。いまだ新しい情報は入ってきておりません!」
「そしてここにきて、政府筋の信頼性の強い情報として、『日本はチコに従わない』意思決定をした模様です。これはほぼ確実な情報です」

「世界で日本だけが、遅刻する生活を許容しません!」
「日本政府は明日9時から総理大臣が発表をするという情報が入ってきてまいりました。内閣が何か、大きな発表をする模様です」


 そして9時になった。
 その時間を、チコは尊重した。チコは日本国民と一緒に、テレビでその中継を見ていた。
 総理が姿を表した。フラッシュが焚かれる。
 正面に立ち、間を取り、総理が口を開いた。目は手元の紙に飛んでいる。
「今、私たちは危機的状況下におかれています。チコなる存在と、その影響。昨日チコなる存在はテレビにおいて、遅刻ある社会を許容するのか、しないのか。世界に回答を求めました。結果、日本を除くすべての国々がチコの存在を受け入れるという回答をしました。安全を選びました。」
 総理は一呼吸置いた。
「日本政府は、チコを支持しません!!それは、核があるのか、ないのかであるとか、安全か、危険かであるとか、そういうことではないのです。日本において、朝の5分は、命より貴重なのであります。命より貴重なのであれば、これに勝るものはありません。筋が、違う話なのであります」

渋谷
「日本やりやがった、馬鹿……」
「日本の異常性がこういう時際立つよな……」

「木村さん、情報をお願いします」
「今、総理の口から発表がありました。正式に、チコと戦う意志を示しました。そしてその理由として、日本において遅刻をしないことは命より貴重なことであると述べました。これ以上の情報は入ってきておらず、その意思決定の過程でどのような議論がかわされたのか、交わされていないのかなどの話は伝わってきておりません」

「高橋解説委員。思いもよらぬ発言といいますか、どうか」
「何を考えているのかと思いますが、何時の時代でも私たちはこうだったのかもしれません。『駄目なものは駄目』という思想ですね。「遅刻」は「遅刻」、いつでもそうだったかもしれません。しかしこれで、国民の生命をチコに譲り渡したのですから、冗談では済まされないということになりますよ」
「この意思決定をうけ、早ければチコは今日にも何らかの声明を発表するのではないかという不安の声が入ってきております。」

渋谷 路上
「あーりゃんさー、だれんくださー、だめくさ(あれは誰だ、誰の考えかしらないが、支持できない)」
「国民の命をなんだと思っているのか。議論以前の問題。(国民の命をなんだと思っているのか。議論以前の問題。)」
「このように、政府の決定を受け国民からは不安の声が上がっています。」
「日本の意思決定を受け、万が一の事態に備え自衛隊がパックスリーの準備を整えた模様です。」
「これはチコに反する態度を表明した以上、チコがどのような行動に出るか予測がつかない事態となったわけですね。」
「高橋解説委員。かつてない核の機器が現在発生していますね」
「チコは自らに背いた日本を世界各国の見せしめにすることができるのですね。核が爆発した、見ろ、日本はああなったぞというやり方が取れるわけです。そういう意味でも日本は極めて危険な状況にあると言っていいでしょう」
「皆さんしばらくおm

 国民保護サイレン

「政府が国民保護法に基づき国民保護情報を発表しました。屋内へただちに避難してください。今、国民保護サイレンが鳴っています。政府は国民保護法にもとづき、国民保護情報を発表しました。核ミサイルの危険があるということであると、思われます。今、国民保護情報が発表されています。屋内にいる方はなるべく屋内へとどまってください。テレビやラジオのスイッチを切らないでください」
.
渋谷
「だったら最初からチコに逆らうなよ」
「え?これ飛んでんの?」

「現在確認されているミサイルは、ありません。核ミサイルが発射されたという情報はありませんが。念のため屋内へ対比してください」

4時4分
「チコです」

渋谷
「4分遅れって……」

「日本の決定を残念に思います。核を乗っ取っておいて、『安心するな』というのも馬鹿な話なので、核には当分注意してください。
しかし、国民の命を本当に何も考えていないんですね……。こんな国だから、KAROSHIなんて概念が生まれるんですよ。日本政府のこの出方は想定はしていましたが……。これでチコには打つ手がなくなりました。考え方を変えてみれば、世界は日本か、そうでない国かに二分されたのです。世界は遅刻のない世界へと進むのです。今はこれで、良いのです。神はかつてかえれみれば存在していたのかもしれないというものでいいのです」

その日、チコ捜査本部の会議。
 部長は言う。「意外と、あっさりと引き下がったな」
 チコと直接やりあった神林。「覚悟はしたんですが。日本の異常さにあきれたと見えます」
「チコはどう出るんだ」
「どうも出ないのかも……」
 橋高はパソコンのディスプレイから顔を上げて報告した。「部長、今のホットラインのログを読んでみたんですが、洗えるサーバかもしれません」

「ところでな、神林……」
「はい」
「遅刻って、心の問題だと思うかね」
「心の問題ですよ!いろんな意味で」
「例えば、どうだ」
「個人の問題です。遅刻は、基本、迷惑度は高くありません。となれば、捉えようですよ。」
「神林、もう一つだけいいか。『遅刻はダメ人間測定器』これについて意見を聞きたい」
「悲しい事実があるかもしれません」
「……覚悟はできている」
「おそらく、それは正しい。ものすごく大雑把な測り方だけれど、概ね間違っていない。生活を時間でくくることで、ほんの少しだけ生活のハードルを作って、あげているだけなのですが。そうすると引っかかる奴が出てくる。ダメな奴は大抵引っかかるんです。遅刻する奴は、それがなんであれ、自分の問題を処理できていない結果に他ならないでしょう」
「う…むぅ。そうだな。」
「しかし…部長。既存の制度を見直すことも必要なのではないかと。きっと今がその時期なのです」
神林は、部長はチコの気持ちがわかる人なのかもしれない、と思った。


日本政府がチコと敵対する方針を決めたことで、諸外国も反応を示した。

「日本 対チコ法案制定へ」
「駄目なものは駄目」各国も評価
「厳しすぎるのでは」世論割れる

 しかし、チコに日本以外の世界が屈服したあの日、たしかに神は存在した。
 そして世界を分けたのである。日本と、日本以外に。
 それはまさに、遅刻の世界の誕生だった。世界は遅刻した。


 一方日本では、ついに、チコ事件捜査本部がチコ個人を特定した。決め手はテレビ中継に割り込んだインターネット回線のアクセスログという、単純なものだった。
神林が叫ぶ。
「東村ぁ!手を上げろ!」
 マンションのドアを蹴り開け、部長が踊りこんだ。
「何をする!」
 神林がチコ・東村が書いているノートを取り上げて首を傾げた。
「何だこりゃ。遅刻するノート?何だこりゃ?」
「僕は新世界を創っているのだぞ……なぜここがわかった」
 捜査本部の一人が言う。
「テレビ放送にインターネットをねじ込むような真似は勘弁してもらいたいね、就職浪人。努力は認めるがね」
 さらにもう一人が食って掛かった。
「俺は認めない!皆、遅刻しないように頑張って生きてるんだろ!」
 チコ・東村が歯を食いしばって、この野郎、と言う。
「遅刻しないやつに何がわかる!?」
 双方をなだめるように神林が言った。
「待ってください。こいつも神の一人です。それなりの思い入れや思い込みや努力や苦悩があっているわけでしょう。
この国は、会社行きたくないって、通勤途中に電車に飛び込む凄い国だ。誰かが変えなければいけないと考えるのは、誰だって同じだ。
とりあえず東村、お前はやり過ぎた。世界を2つに分けるとは、ここ5000年のスパンでみてもそう起こっちゃいない。核で国を脅すとは、ハリウッドみたいなことをやるじゃないか。そういう奴に限って、穴があったりするんだ」
「穴があるやつはたいてい遅刻している奴さ。遅刻するような奴は、どこかに穴があるとでも言うんだろう!?公務員に何がわかる!?お前たちは、いつだってそうだ……。言ってもわかるまい。僕を誰が裁く!?」
 ニヤリと捜査本部の一人が吐き捨てるように言った。
「お前!放送法とか、多分違反してると思うぜ!」
「ふん……。チコが正義だ!!!!!」
 拘束されたチコは神林に、公務員め、と叫んで連行された。

 そしてこのチコの拘束劇は、新世界創造にまつわる出来事の、ほんの1編に過ぎなかったのである。
 チコとノートをめぐって、世界は新たに回り出す。

…………

これはそんな戦いから遠い時代の、ある国の、ある時間の、ある朝食の光景である。


「おはよう」

「おはよう」
祖母
「おはよう」

「急がないと、遅れるよ」
「何?おばあちゃん。オクレルヨって」
「ああ。ついね。今じゃ考えられないけれど、昔はね……決められた時間で行動しなければいけなかったのよ」
「そのことを、オクレルヨって言うの?」
「まあ、ね。ついていけなかったりしたことを、オクレルヨって呼んだの」
「オクレルヨはどうなったの?」
「ほとんどが自殺したの」
「えっ!可哀想」
「それはその人が悪いってことにされたのね。何万人も、オクレルヨが自殺しても誰もなんとかしようとしなかった。そんな時、神様は遅れてやってきたのね」


May 10, 2016




聞き給え。この物語も数々の俺の狂気の一つなのだ。


アルチュール・ランボオ「地獄の季節」




高山めぐみは晴れた日の太陽の光を浴びながら、公園で気持ちよく煙草を吸っていた。公園の隣には郵便局があり、公園との境には緑色のフェンスが設置されている。そのフェンスには、柵越え防止のための有刺鉄線が一本通っている。めぐみはその有刺鉄線に吸い終えた煙草のフィルターを突き刺しているのである。いち、にい、さん、しい……、数えると10本刺さっていて、めぐみは11本目を咥えている。子供の頃、こんな風にして、蜻蛉を捕まえては、刺して遊んだことがあったっけ……、そんなことを、考える。
公園側には交差点があって、信号が点滅、点灯するたびに人々が行き交っている。それを眺めてもいる。ふと、人間交差点という単語が思い浮かぶ。思い浮かぶが、大して深い意味があるとも思えない。同じ漫画かもしれないけれど、きっと、「カイジ」の鉄骨渡りのシーンの方が、ずっと面白いだろうと考えたりもしていた。
煙草を吸いながら、立ち、公園をうろうろする。この公園には回転遊具が備え付けられていた。今時、珍しいと思った。羽織っている本革製のライダースジャケットを脱ぎ、思い切りはしゃいでみたいけれど、一人ではさすがに恥ずかしいので躊躇している。彼が来たら一緒にやろうかとも思う。
めぐみの婚約者(右の「彼」とは別人である)は、今日、ここに行くことを快く思っていなかった。集まりに男性も含まれていることもおそらく、ほんのわずか理由の一つなのだろうけれど、「廃墟に行く」ということ自体が、彼の理解の外なので、彼はとても真っ当な精神の持ち主であった。そう、彼のような真っ当な神経、精神の持ち主が私と共に生きてくれているということにめぐみは感謝もしていた。
めぐみは少し前まで、都内の病院を退院したばかりであった。
それは、フィジカルではなく、メンタルを病んでのことであった。めぐみには20歳の娘がいる。彼女との関わりは彼女の成長とともに複雑化していき、夫——元だが——との軋轢、姑の無理解によるストレスは全くめぐみ自身に悟られることなく、めぐみを襲った。「足音もなく忍び寄る影、闇」とはまさにこのことだ、と思ったものだ。
病に気付いたことが、病と向き合えるきっかけそのものだった。夜、眠ることができなかったり、異常な調子の良さのさ中にある時は、それが病んでいるということ自体にさえ気づかなかったのである。眠ることができないということは、活動できる時間が多い分、自分は有利だと感じていた。精神の活動欲求に、身体がついていくことができなくなっていた。そんな病が寛解してきたのが、ようやく最近になってからのことである。
有刺鉄線の煙草が14本になった時、道路をバスが通ったことに気がついた。めぐみは公園にいる間ずっとバスが通ることに注視していたのである。
歩道に出て、道路向かいのバス停を見ると、懐かしい男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。大きなリュックを背負っている。めぐみが手を振ると、向こうも道路を渡りながら手を挙げてみせた。
「赤井くん、元気やった?」
めぐみは赤井冬真に満面の笑みを見せた。
「お久しぶりです、先生」
「先生はやめいって。自分も先生やんか」
「お互い、元気そうですね」
赤井も笑みを見せた。
「今日は楽しみで楽しみで、寝られんかったで」
「寝てないんですか?大丈夫でしょうね、はは」
「この『寝てない』は大丈夫な『寝てない』や」
「相変わらずライダース、格好いいなあ」
めぐみは50歳を過ぎているにもかかわらず、ライダースジャケットを着ているのである。それがとても格好良いと、赤井はめぐみのことを言うのだ。
「それより、いつも通りの装備で来たからな」
「はい。今日もトキの世話になりましょう」
トキとは、赤井が開いている法律事務所で働いている補助者のことである。赤井たちをメンバとする廃墟探索家の集まりRSARの一員では最も若い、というか、未成年でさえある。本人の前で口にすることはないが、言葉にするならば、富豪である。富豪ではあるが、「お嬢さま」という言葉は彼女には適切ではない。それだけの事情もある女の子、ということだ。
トキの世話になる、ということは、廃墟を巡る時の緊急用食料だとか、非常用無線のような面倒な準備はみんな、彼女に任せているということで、トキが廃墟用の車を所有していてそれに常時必要なものを積んでいるということから、いつもそのようにしている、ということである。だから今日もほとんど、カメラだけ自分のものを準備するだけでよかったのだった。
めぐみと赤井は、トキと待ち合わせをしている駅に向かうために、バス停へと向かった。するとほとんど待つことなく、駅へ向かうバスが来た。先にめぐみが乗り、赤井は乗りこんで緑色の手帳をかざすと、扉が閉まり、ほどなくバスは駅へと動き出した。

May 06, 2016

連載予定
「アリスの館殺人事件」
内容紹介
予備校講師赤井冬馬の所属する廃墟サークルのもとに、伝説の廃墟「アリスの館」を発見したという情報が入る。廃病院だった館を訪れる一行の前に現れたのは「死んでくれる?」という声とともに青いドレスを身にまとったアリスだった。アリスの言葉とともに死んでいく廃墟家たちと、姿を消すアリスの正体とは——!?

May 04, 2016






……っ、はあっ、はぁっ、はぁっ……
はあ、はあと荒い呼吸を止め、左腕を凝視する。ゴムチューブを噛んだ歯はきつく食いしばり、息を飲む。
左腕に絡んだチューブの一方は右足の親指へと繋がり、ソファの上で極めて不自然な格好となっている。右手には、注射器。ゴムチューブを一度口から離す。
左腕にはすでに赤黒い斑点がいくつもできていた。血管の通り道に沿って傷つけられていて、これはこの一晩でできたものである。腕を何度も角度を変え、鋭い針を突き刺す場所を探す。腕を肘と反対側に大きく反らせ、血管を浮き上がらせる。震える手つきを気持ちで押し沈め、針の角度を慎重に整え、青い筋とやや平行に……刺した。……神経には当たらなかったようである。少し安心する。そして、震えを抑えつつ、極めてゆっくりと針を……進める。ゼロコンマ1ミリ単位で、進めるのである。ここにドラッグの作用である極めて高まった集中力を集める。
……入らない!
だめだ!入らない!
一度、進めた針を戻してみる。戻す過程で、血が入ることもあるのだ。畜生、だめだ!くそったれ!舌打ちを、するーー。

February 27, 2012

 わたしはもさもさとした黒い羽をもつ鳥だった。夢の中では自由にそうできたものの、実際、空は飛べなかった。熟れすぎて樹からおっこちたパパイヤや、ざくろの実を食料としていた。わたしは孤独を愛したが、同時に同胞の存在を欲した。そうして出会ったトモダチは、七色に輝く羽の、美しい鳥だったが、どうしてかわたしと同じく彼女も空を飛べなかった。いろいろな話をした。昨日みた夢の話。樹から落ちた果実に群がるアリたちを一掃する方法。ちょっと背伸びをするだけで味わうことのできる蜜をもつ、背丈のひくい花々の場所。そして、どうして自分たちは空を飛ぶことができないのか、空が飛べたらどこへ行きたいか、どんな気分がするだろうか……。わたしはいつも、たぶんわたしよりもずっとずっと夢見がちな彼女の瞳をみながら思ったものだ。この子が空を飛んだなら、七色の羽があたたかな陽の光に照らされたなら、わたしと違って、ほんとうに、ほんとうに美しいだろうと。
 さようなら。ある日、海辺で飛びかうカモメたちをみていたとき、彼女は唐突に言った。わたし、飛ぶわ。あの子たちみたいに、飛ぶわ。
 翌日、浜辺に打ち上げられた彼女の身体は、あの美しい七色の輝きをすっかり失っていた。

April 06, 2010

「系統的脱感作法」

J・ウォルピによって考案された、不安・恐怖に対する行動療法のひとつ。「不安と相容れない反応(リラクゼーション反応)を不安が起こっている場面で引き出すことができればその不安は低減する。」(逆制止法(拮抗制止法))

患者との面接・恐怖調査表(FSS)による不安反応の査定
→不安階層表の作成(不安・恐怖の程度の数値化する自覚的障害単位(SUD))
→漸進的筋弛緩法、自律訓練法により不安拮抗反応を獲得

April 05, 2010

E・バーン(アメリカ)によって開発された人間行動に関する理論体系・治療法。
 自己への気づき、自立的な生き方、真実の交流……「他者を変えることはできないが自分自身を変えることはできる」

そのプロセス
1.構造分析(パーソナリティの特徴を捉える)
2.交流パターン分析(2者のコミュニケーションをとらえる)
3.ゲーム分析(悪循環に陥った対人関係パターンを扱う)
4.脚本分析(人が脅迫的に従ってしまう人生のプログラムを分析)

自我の状態……親(P)、大人(A)、子供(C)によって対人交流・パーソナリティの構造を表現(これをバイオグラフで表現したのがデュセイによるエゴグラム)
P(親の行動・思考パターンが自分の性格の一部となっている)
  NP:養育的親
  CP:批判的親
  A(借り物ではない現在の大人としての感情・思考・行動)
  AC:適応的子供
  FC:自由な子供

交流分析は神経症や心身症に対して治療効果があり、健常者の日常的な対人関係の問題解決にも有効である。
「クライアント中心療法と、精神分析・行動療法との対比」

・クライアント中心療法
 クライエントと治療者の人間関係を重視する心理療法。
 人間は本来実現化傾向(自己実現化傾向)を持つ存在であり、指示・解釈を与えなくとも自発的に変化してゆくため、受容的・傾聴的な姿勢でクライエントと接する。
 セラピストの態度条件……純粋性(治療者自身の自己一致状態。ありのままの自分を示す)、無条件の肯定的態度(クライエントのあらゆる部分を受容)、共感的理解(あたかもその人のように、クライエントの私的世界を感じる)

・行動療法……あくまで顕在的な不適応行動の除去・修正。
 クライアント中心療法……不適応の背後にある否定的な自己認知を問題にし、洞察させて原因に働きかける。

・精神分析……過去(特に乳幼児期)における他者との葛藤や問題が無意識に抑圧され、不適応問題を起こしているとして、主に過去の洞察を求める。
 クライアント中心療法……これまでの経験から紡ぎ上げてきた理想とする自己概念と、「今、ここ」におけるギャップが不適応を起こすとして、その感情や思いに焦点を当てる。

 ロジャースの示した治療者の基本的態度は、カウンセリングの本質として学派を超えて幅広く受け入れられている。
「ロジャースの提唱する、カウンセラーにとっての必要条件」
(来談者中心療法、パーソンセンタード・アプローチの中心概念)

1.無条件の積極的傾聴
 クライエントがどんな自分も変わらず受け入れてもらえる体験をすることで、これまで他者から受け入れられずに驚異と感じていた経験をも受容できるようになる。
2.共感的理解
 カウンセラーがクライエントの内的照合枠を自分自身であるかのように感じ取り、それをクライエントに正確に伝えること。
 他者との相互作用の中で承認されたものは価値ある自己概念として体制される。自己の感じている矛盾・葛藤の意識化が、自己概念の形成に役立つ。
3.純粋性
 カウンセラーの自己と経験・感情が一致した状態になることで、クライエントとの信頼関係が強まる。

July 04, 2009

 御守り袋をそっと覗いて、わたしの神様がどこにいるか尋ねてみた。
 袋のなかの神様は、それは私です、といってにこりと微笑んだ。
 ――だってわたくし貴方のことを、ずっと見守っておりましたのよ。貴方がほんの、ちいちゃな頃からね。
 そんな気がしていました。とわたしは恥ずかしいような気持ちになる。
 ――貴方のおとうさまとおかあさまが、わたくしをぜひ、貴方の神様にとおっしゃいましてね。わたくし、喜んで引きうけたのですよ。だって貴方はとっても、とっても可愛らしい、素敵な赤ちゃんでしたから。
 ありがとう、わたし、あなたが神様で良かったわ。とわたしは言った。こんなに安心した気持ちになったのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。ほんとうは、毎日うまくいかなくて、いいこともなくて……だから神様を変えてもらおうと思っていたのだ。でもそんな必要はなかった。
 こんなに長い夜でも、わたしの神様はずっとずっとわたしを見守っていてくださるのだから。

May 29, 2009

 わたしの家は大きな料亭をやっている。
 休日、わたしの友人たちだけで貸し切り、集まる。誰からともなく、珍しい魚や串にさした肉、野菜などを持ち寄って炉端で焼く。飲んで騒いで、笑う。
 わたしはそれでもやっぱり皆の中のきみの姿を追っていて、きっときみもそうだ。

 あるときふたりで抜け出すことにした。
 店の外はドーム内のショッピングモールで、真夜中だったので、翌朝の開店セレモニーのリハーサル真っ最中だった。
 きらびやかな衣装の女性が踊り、虹色の紙ふぶきが、赤や青の軽い軽いすだれが、いくつもいくつも降ってくる。
 きみはそれを踊るようによけて、振り向いて笑う。
 散々悩んで決めた服は、きみと似た色合いで、嬉しい。

May 28, 2009

すぐにもとのまっすぐな体に……とあなたはいう
でもごめんなさい おとうさん わたしは
わたしはいつからまっすぐだったかなんて もう
とうに忘れてしまいました

あなたには どう映っていたでしょうか
あの頃はまっすぐだった?
さいきんは まっすぐではなかった?
それともいつだってまっすぐだった?

もう戻れないかもしれないけれど
ほんとうは初めから歪んでいたのかもしれないけれど
わたしのまっすぐ みつけるから
だからもう少しだけ 待ってくれますか?

May 27, 2009

夕日の中 なんどもなんども
きみがぼくを好きか たしかめる
きみが恥ずかしそうに笑う
それでもぼくは 何度も何度も訊く
訊きながら 頭の中では
病院からもらった安定剤が
あと何錠あったか 数えている

May 26, 2009

 ピノッキオはふたりきょうだい。
 らっぱふきのおとうさんと、ころころしたおかあさんと暮らしているよ。
 ある日よにんで、教会へお祈りへいきましたとさ。

 ピノッキオらはママのつくったピザパイを食べながら、レンガの道をどんどんさきへ、さきへいくよ。町へついてもどんどんさきへ、さきへ。
 みんな、お祈りがだいすききなのです。ピノッキオらも町のひとびとも。

 きょうも教会はにぎやか。気のいい町びとでいっぱいです。
 ピノッキオらはピザパイをたべながら、前へ、前へいくよ。
 ママがいいます。
「ふたりともいけません! おとうさん早くとめてちょうだい!」
 大きなラッパをかついだおとうさんは、ピノッキオらをおいかける。
 おいかけて、食べかけのピザパイをとりあげて、ラッパの中へ。
 ママは笑います、よくやったじゃない! そういってパパのラッパをたたく。

 たたかれて、びっくりしたラッパが鳴って、ピザパイがとびだしたよ。
 みんなびっくり。

March 19, 2009

   第一夜
 腹立たしいほど威圧的に話す教師が、「みんなで柴犬を飼いましょう」と言う。皆で会議の場をもうけ、犬ころの名前について話し合う。わたしは「まつげ」がよいと提案した。ひどい名だが、なにか発言しなければ家に帰してくれないと教師が言ったからだ。逃げるように校舎を出、迎えの車へ乗り込む。
 あれほど愛玩動物を飼う云々で盛り上がったというのに、車窓から見かける犬や猫や町じゅうの動物たちが、四肢を麻痺させ、けれどもどうにか道を這いずっている。
 ライオンだけが青々と輝く草原でまぐわっている。
 道路には累々と、ひとの死骸が投げ出されている。一体避け、二体避け、三体目を轢く。運転手が嘔吐する。わたしを事故死させるわけにはいかない、赤くうるんだ目だけはフロントガラスの向こうから離さない。口をぬぐってやろうと後ろの座席を見る。布だと思ったものはわたしの着替えであった。袋いっぱいに詰め込まれている。
 そうだ、逃げるのだ。このおかしな町から。

   第二夜
 もうひとりのわたし、わたしの半分が、泣いている。あぶらの浮いた黒い髪を涙でますますべたつかせて、頬を赤くし、声をころして泣いている。ときどき、ふやけ歪んだ目で、ちらりとこちらを見る。
 わたしはその目の前で食べている。腐りかけの桃を。もうひとりのわたしと違ってよくできるわたしへのご褒美である、腐りかけの桃を。食べなくてはいけないのだ、おいしそうに、腐りかけの桃を。これは罰だ。女王の機嫌を損ねた、もうひとりのわたしへの。
 わたしは腐りかけの桃を食べつづける。

   第三夜
 まっさらな空中を金色にかがやく。窓枠からはみ出さんばかりの天秤が、もったりと吹く風に、ゆらゆら、ゆらゆら揺れている。中央に座す、赤い、王様の顔の重しが右へ左へ、定まらない。がりがりと不快な音を立てる。
 大きな紫色のあげは蝶が、かび臭い粉をまきながら飛んでくる。蝶は嫌いだ。振り払っても振り払っても、まとわりついてくる。紫の粉がまとわりついてくる。いやだ。窓の外に、もう一匹。いやだ。紫の粉の蝶が、いつのまにか口の中に入り込んでいる、いやだ、紫の粉の味がする。まだ羽ばたこうと、薄羽の先が、ぴくぴく、何度も持ちあがる。いやだ、粉が水気を吸って、蝶が、じわじわ、じわじわ、粘膜に張りつく。

   第四夜
 何も乗っていない、ただ薄く長い、滑らかな白木の卓についたまま、動けない。わたしに向かい合って、大きなテレビが座っている。テレビの話す砂嵐だが、何を言っているのか解らない。静かにまとわりつく耳鳴りのノイズの中で、かたかた、かたかた回る音がする。カタカタカタカタ、だんだん速くなり近づいてくる。テレビから小さな透明のおもちゃの馬車が走り出てくる。カタカタカタカタ、どんどん速くなる。正方形のアクリル箱を、二本の指が、引いている。砂嵐にまみれてうっすら赤いアクリルの箱にはまだたくさん、指がぎっしり詰まっている。カタカタカタカタ指が走る。指をぎっしり詰めた正方形のアクリル車が、こちらへ向かって、どんどん速く、止まらない。ノイズを止めたテレビに何か映っている。何か、見ない。見たらわたしは。

   第五夜
 そのゲームはいつも小さな公園から始まる。赤い男児三人に、仲間にしてくれとわたしは媚びる。双子の醜い女に土下座させられ気付くと背後に木の箱がいる。その箱には手足が細く毛の無い猿が隠れている。その小さな道化は「この箱を見たきみに選択肢を示そう」と言う。最初はゲームだと気付かないのだが、高く飛びすぎたり、踏むタイルの色を間違えたりと、わたしは何度も選択肢を誤る。その度、箱猿にあざ笑われ、もとの公園に連れ戻される。
 罰ゲームはいろいろ用意されている。モニタ画面が黒く点滅しながら赤く熱く変色し、ドロドロ溶ける。豹変した肉親に、密室に連れ込まれ、残酷な方法で復讐される。若い頃の父に抱かれる。押さえても押さえてもまくれ上がるポスターを全身で押さえていると身体中にびっしりと画鋲が刺さっている。しばしば柔らかい女にいたぶられる。その女、わたしのあばら骨を愛している。わたしの折れて飛び出した肋骨を指で強く何度も何度もいじりまわす。凄い力だ。骨が皮膚の下でぐりぐりと動かされては痛みに吐き気をもよおす。いやだ、いやだと叫んでも、なかなか箱猿はあらわれない。
 ようやく箱から顔を出すと、猿は「楽しいかい」と笑って、わたしをまた公園に連れ戻す。

   第六夜
 幼い頃に使っていた部屋を、整理することにした。
 ビニル袋に詰め込まれた、ウサギの死骸が出てきた。
 あの時わたしは、わたしの不届きを隠すためにこれを押入れの奥にしまい、そのまま忘れていたのだった。
 ウサギは小さく、灰色に干からびていたが、再び流れ出した時間や再燃するわたしの後悔とともに……赤くとろけ、袋の破れ目から漏れはじめた。い草の隙間を埋めながら、あせた畳の上にじわりじわりとなめるように広がってゆく。
 あの日と同じく、わたしは内心の動揺を隠し、なにくわぬ顔で酢のような臭気を放つウサギの液体を真白いタオルで拭き取る。
 丹念に拭き取りながら、このタオルをどうしてくれようか考えている。

《つづく》
 シンデレラはお見舞いに、白く華やかな服を着ていった。
 病室をあかるく暖かく照らしたかったからだ。
 姉たちが、不謹慎だと彼女を非難しないだろうか。
 やさしい子供のようなあのひとを、傷つけはしないだろうか。
 麻矢の部屋には人形がたくさん飾ってある。陶器の、色鮮やかな――といっても十数年経て、大分くすみ、悲しく変色したものだったが。
 もともとは彼女の部屋ではなかった。彼女の母親は人形作家で、家中にその作品が飾ってあった。そのなかから、展覧会には出さなかったもの、公に飾られることの無かったもの――いわばその部屋は失敗作置き場だった。
 麻矢はある日、部屋の掃除にとりかかった。普段は気にも留めない、だが自分の持ち物とは違う匂いを放つ人形たちも、おそるおそるほこりを払い、少々位置を直し、空気を入れ換えた。
 夜になり、またいつものように無気力な様子でベッドに腰掛け、缶ピールのプルタブに手をかけ、ぞっとした。
 人形が、部屋中の人形が自分の方をまっすぐに向いている。ごく細い筆で丹念に描かれた顔が、麻矢を見ている。
 ママ。麻矢は思った。まだ私を咎めるの? とっくのむかしに、わたしはあなたをお母さんと呼ぶのを諦めたのに。あなたが為しえなかったこと、あなたの期待を一心に込められたわたしは、精一杯、あなたの綺麗な人形でいようとしたわ。
 それが不可能だと悟ったとき、わたし、あなたに泣いて許しを請いました。いいのよって、言ってくれたわね。嘘だってわかっていたけれど、わたしあの時はほんとうに救われたわ。
 人形のようなママ、大好きよ。いつかいつかそのときがきたら、力一杯壁に打ち付けてこわしてやるんだから。いっぱいいっぱいお酒を飲んで、痩せて、目だけきらきらうるませて、あなたそっくりの綺麗なお人形になったらね。
 でも、今日はもういいの。疲れたわ。ごめんねママ。
 麻矢はうつろな目で部屋を見わたし、一番目につく一体だけをくるりと壁の方へ向け、ベッドに潜り込むと、ラジオの音量を少しだけ上げた。

December 20, 2008

 いつも僕の言うことを聞いて、僕の一歩後ろからついてきてくれる
 家に帰ると温かいごはんをつくって待っていてくれる。
 僕の話を理解しつつ、何も言わずに聞いてくれる。
 僕のことをこころから尊敬してくれる。
 でもときどき力の抜けた人形のように無気力になる。僕無しではいられなくなる。
 そうして手をつけられないくらいヒステリックな面をさらけ出す。
 だけど次の朝には母性に満ちた顔で、ごめんね、と言う。
 いっぱい、いっぱい話したいことがあるんです――。
 麻矢さん、あの日もとても焦っていましたね。
 自分を「麻矢」という名の集合体だと思っていること、今話をしている自分は「わたし」というその中のひとり、代表者であるということ。
 あの方、こんなことも言っていましたね。
 自分はほんとうは誰よりも優れた、特別な存在だ。あらゆる他人が、自分より劣っていると感じる。物心ついたときから、そう感じていたんだってね。
 ――そういうねじ曲がった認識をわたしに植えつけたのは、きっとおじいさまと、まきさんね。
 でも、でも、と何度も首を振るんです。
 今はそんなこと、問題ではないんです。
 どうかどうか、私をモーツァルトにしてください。
 モーツァルトになる方法をおしえてください。
 ここは遠くて、そうしょっちゅう来るわけにはいかないから、今日しかできない治療をしてください。
 どうすればいいですか? このまえみたいに、砂でお庭をつくればいいですか? クレヨンで絵を描けばいいですか? 歌をうたえばいいですか? あなたの話を聞けばいいですか? 今日しかないんです、今日、どうにかしてください!

 前に来たときと同じように、取り乱していましたね。
 でもそのあと小さな声で「どうにもできなくたって、もう、いいのですけれど…」と言ったんです。
 だから私は言いました。だったら今日はいちにちここにいなさい。好きなことをしなさい。何もしなくたっていい。
 そうすると海の見える、ああ、この部屋ですね。窓はいつも開けているんです、潮風がよく通りますでしょう。その隅っこであの子は一日、日がないちにち、ずっとずっと、泣いていました。

December 14, 2008

ぼくはね、天使なんだ。
だからね、ぼくのことは誰にも秘密だよ。

町外れの廃墟で出会った少年はそう言って笑った。
口角を少し上げるだけの、柔らかな笑みだった。

少女は約束を宝物のように大切に胸にしまって、閉じた。
誰にも言わない胸の秘密の宝石箱を。

廃墟の天使は、居るときもあれば居ないときもあった。
少女も、行くときもあれば行かないときもあった。
二人の交わす言葉は少なく、廃墟の少し高いところに二人で座ってただ町を見下ろしていることが多かった。
道を行き来する人々。駆け回る子供たち。さまざまな色の屋根、屋根、屋根。
そんないつも代わり映えのない景色を、ただ、無垢な二対の瞳で。

クリスマスの近づいたある日、少女は廃墟で懐中時計を見つけた。
泥を落とし埃を払い、ネジを巻くと時計は動き出した。
カチ、カチ、カチ。
秒針の刻む音色は、穏やかに耳に響いた。
少女はそれを丹念に磨き上げた。天使に贈るクリスマス・プレゼントとして。
柔らかな白い布が、真っ黒になり、時計が柔らかな金色に光りだすまで、大切に大切に、磨いた。
カチ、カチ、カチ。
優しい音。少年の心音のような。

そうしてクリスマスの夜、きららかなイルミネーションの中、少女は廃墟に向かった。
丁寧に包装し、真っ赤なリボンをつけた、その時計を天使に贈るために。

キラキラ光る町を背に、天使は立っていた。
町のひかりが、彼の輪郭を優しくふちどるのを、少女は微笑んで眺めた。
柔らかな笑みを浮かべたまま、天使はメリー・クリスマス、と、囁くように、言った。
少女は微笑んで、抱えていた贈り物を、差し出した。

二つの無垢な瞳が交差する。
天使がそっと手を伸ばす。
赤いリボンがふわり、と揺れた。
少女が口を開き何か言いかけた、そのとき、

空が光った。

すべてが真っ白に染まる中、ほどけたリボンがふわりと舞う。
二人の輪郭が一瞬、重なり、溶けて、消えた。

カシャン。
時計が焼け爛れた地面に落ちるころには、世界はその様相をがらりと変えていた。




この町は。
戦争をしていた。
正確には、戦争をしている国に属していた。
大人たちは兵器を作り、
子供たちは小さなころから兵士になるよう育てられる。
そして、この町で作っていた兵器は―――ひとのかたちをしていた。


あたり一面が焦土と化した中、ゆっくりと少年は立ち上がった。
少女の姿はもうどこにも見えない。
振り向いて眺める町には、イルミネーションも、街角でクリスマス・ソングを奏でるひとも、いつも見ていた色とりどりの屋根もない。
すべてが爛れ、ぼろぼろに崩れ果てていた。
嘘の平和。嘘の幸せ。みんな焼けてしまった。
少年は落ちていた懐中時計を拾う。
時を止めてしまった時計を。

涙がこぼれるようには、出来ては居ない。
一日に二回、この時計が正確な時を指すときごとに、少年は涙を流すことなく、泣くだろう。
壊れた時計を握り締め、少年は空を見上げる。
ぴしり、と音を立て、少年の背から金属の翼が突き出した。

さようなら。
さようなら。

少年が飛び立つ。
金属の翼をきらきら光らせて、飛んでいく。
どこまでも。
どこまでも空へ。
時を止めた時計を握り締め、少女の面影を胸に、殺戮と破壊の空へ。




December 13, 2008

 いつも僕が僕の一歩右手前にいて、
 ぼくが何ら脈絡のない言動をするのをただ見ている。
 そのとき僕は胸がいっぱいで、それでも何故か何の感情も抱いていない。
 きみ、早く僕を導いてくれないか。
 それとも僕のくせに、僕のことを蔑んでいるのか?
 おれはひさびさに泣きました。
 どうしてもあいつの言っていることがわからなくて、考えて、考えて、考えました。早足で歩きながら、なみだが左目から――左目だけから、ぽろぽろ、ぽろぽろこぼれはじめて、アパートに着く頃には唇のはしがしょっぱかった。
 予想外でした。ひいちゃんは、すぐドアを開けてくれました。おれが鼻をすする音をきいたんだと思います。
 ――おめでとう。きみが泣いてなかったら、開けなかった。
 そう笑ってためいきをついたひいちゃんは、目を伏せていて、右の口元にはまだ渇いていない、なみだの跡がありました。
 ――今日からボク、悪いコになるんだモン。そうすれば、あとから、裏切られたなんて言われないもん。かわりに今のうち、ボク、泣いておくもん。
 だいじょうぶだよ、もうあんなことしないよ。ひいちゃんはおれに何度もいいました。
 だってボク、悪くないもん。
 だってぼく わるくないもん
 わるくないもんぼく
 わるくないもん わるくないもん わるくないのに――!

 ひいちゃん右目だけ真っ赤でした。

September 09, 2008

 お金の管理をしてくださる方。
 部屋の片づけ、掃除をしてくださる方。
 あたたかいごはんを作ってくださる方。
 とりとめもない僕の話を、にこにこと黙って聞いてくださる方。
 僕が寝つくまで優しく頭を撫でていてくださる方。
 僕が僕の世界の代表者としての自信をうしなっている時は、僕の根拠もなくうずたかい誇りのことを想って、そっと放っておいてくださる方。

 僕のものなのにどうしてか僕の中に居ない、あなた。

August 16, 2008

 いつも同じくらいの時間に目が覚める。ちょうど安酒の酔いから覚めて、いつものようにごつごつした不安で胸がつかえる感じがして、いつもの雑多な部屋に引き戻される。
 また粉の夢をみた。白い粉が沢山、目や口に入ってきて痛い――という夢。
 昨日もみた。紫の、パサパサした粉を巻き散らす蝶だった。
 喉が乾いているんだろう。そう思って真冬の深夜に氷水を飲みつつ――そういや本来、夢には色はついていないと聞いたことがあったが、僕の見る夢はいつだってこれでもかというくらい色鮮やかなんだよなあなどと考えていたら、寒くなった。
 氷水のせいだ。いや、氷水のせいではない。
 いつからこんな不快なループに巻き込まれていたのか?
 毎日、毎日だ。寝て起きると、この世の終わりのような感覚に飲み込まれる。何故今、何故この場所で目覚めるのか。どうせならずっと眠ったままで良かった。こんな望まれない目覚めを一体誰がもたらしたのか。――という劇的な絶望感に、ああああああ…と頭を抱え小一時間苦悩したのちさて、と我にかえるのだ。
 寝ているあいだ僕は、絵にも描けないあたたかなワンダーランドに、それこそ二度と目覚めなくてもよいと思えるような安楽世界に、ご招待されているのかもしれない。
 口の中は粉だらけだが…? そのくらい寝覚めの絶望感は不快なのだ。
 しかしその実、不吉な動悸がおさまるにしたがって――こんなぬるく曖昧で残念な現実感などいらぬな――とまた別種の絶望もじわっと吹き出してくるのも事実で。玉手箱、開けてしまうも目を背けるも、半BAD半哀愁。

 そんなどっかのエロゲのエンディングみたいな気分で、僕は今日買ったCDを聴きはじめた。
 夜明けまでしばし、ふたたび粉の夢をみるために。
ひとりさん(25)
◆部屋とは/ <過去倉庫であり願望であり今の自分の鏡であり、もう一人の自分。自分世界のミニチュア>

 説明/ 人のよく集まる空間、はたまた他人の不可侵領域か。
 模様や色は変遷しても、部屋とその主との付き合い方はそうそう変わらない気がする。
 思い出や懐かしいもので満たされた部屋。
 あるいは己を決定づける要素に対する一途なこだわりによって厳選された?部屋(本なら本しか置かない、とか)。
 あるいは視覚的にお洒落で洗練されている部屋、などなど。

 ワタクシこういう者です、と言って部屋の写真を差し出したら、大方どのような人間か解って面白そう。
 作品を見ればその芸術家の持つ世界などまるわかり、といいますが何もそれは芸術に限ったことではないような気がします。

(まあ、一概にそうともいえなかったり。
 以前、普段から"熱血で派手"な人物の部屋にお邪魔したら、意外にも殺風景で。そのとき僕は――ああこのひとは、持てるエネルギーを全て外に向けているんだなあ――などと思ったのでした。)


もうひとりさん(25)
◆部屋とは/ <限りなく理想的な不安空間>

 説明/ 僕は部屋の模様替えを頻繁にします。引っ越しも多いです。どうしてもいつもほんのり不安で、どこにいても落ちつかないのです。
 扉や窓に背を向けると落ちつきません。かといって常に視界に入っても落ちつきません。

 何かに囲われていないと安心できません。とはいえ壁の向こうが外だったり、人の部屋だったりしても不安です。ベッドの回りに衣装ケースを積んだりします。大きなベッドでは落ち着かず、ソファーベッドに換え、小型のソファーベッドに換え、今は低い小さなソファーに丸くなって寝ています。(自分の布団に他人が寝るなど言語道断で、つき合っててもくっついて眠ったこと、たぶん無いと思います。ごめんね)

 いままで、安心できた場所というのがないのです。模様替えする度、ああまたダメだ、とがっかりします。
 まあ、部屋ではなく僕に問題があるというのは瞭然ですし、そんなふうに付きまとう不安が、常に次への原動力になっているならそれはそれで歓迎です。安息の地を求めてあがき続けるのも、悪くはあるまい。なんつって無理矢理ですけど。

 そういえば理想の、窓は極力小さく、壁はコンクリート、扉は重く頑丈で、静かな――そんな部屋に一度だけ暮らしたことがあったのです。
 あのときはどうだったんだか――なぜか思い出せません。
 もしかしてこの不安が,僕を僕たらしめているのかも??

(書いているうちに大げさになりましたが、苦しんでいるわけではなく、むしろ楽しんでいます。実はいつもハイテンションです、すみません。)


さらにもうひとりさん(25)
◆すさんでしまった時は物置などで寝ます。僕からにじみ出る荒んだスモークを,部屋に持ち込みたくないのです。古い木材や段ボールの匂いのする,真っ暗で狭いところに詰まっていると――ああ僕もだけど空間も荒んでるよ,ここは本当に僕にふさわしいやアッハッハ!!(?)と,あちこちに点在する僕の思いつきサイトのように半端な世界を,即席でその場しのぎの置き土産を残して,うやむやながらも解決してしまう。

「わかっているくせに。荒んだ僕も"ぼくという集合体ぼく"の一部。そのくらい受け入れる度量をお持ちなさいな」
「…うーんまだちょっと。なんたって今は物置サイズだからさぁ」
(――そんなわけで,いくつにも仕切られたコレクションケースや工具箱のような世界を目指したいと思います。)

回答者求む。

August 14, 2008

○月×日 諸君わたしはボールペンの匂いが好きだ/
 ボールペンの匂いが好きだ。電気製品(特に新品)の匂いも好きだ。
 ところで気づいた。ボールペンと電気製品の匂いは似ている。
 諸君わたしはボールペンは黒を使う。わたしの持つ家電はほとんどが黒い色のものだ。わたしのボールペンは油性だ。プラスチックも石油からつくるという。
 恐ろしい仮説に行き当たった。わたしは油の匂いが好きなのかもしれない。しかもおもいっきし濃いやつ。だとしたら日頃ネコミミや金髪メイドさんに思いを馳せ、幻想の世界で生きることを誇りにしているわたしにとってそれは、なんとも美しくない事実だ。
 諸君わたしはそこで、その恐ろしい仮説をくつがえすべく、ボールペンのインクや家電用樹脂の詳しい成分などを調べたり、今までにもまして念入りにボールペンや家電の匂いをかいだりしていたら遅刻しました。


○月×日 諸君わたしはオレンジの匂いの少女たちの夢をみた/
 知らない村をあてどもなく歩いていると、『オレンジの匂いの娘を製造する遺跡』というのにたどり着いた。稼働しているが、主みずから遺跡と呼んでいた。
 ひさびさの訪問者に初老の主は喜々として、この娘はこうだ、この娘はどうだと次々に説明をする。
 少女たちはいずれもまだ幼く、洗いたての長い黒髪で、皮を剥いた瞬間の濃厚なオレンジの香りがした。
 そのときわたしは――でも食べるなら、はっさくや伊予柑のほうが好きなんだよなあ。と思った直後――目が覚めてしまった。失敗した。なんか残念。

 諸君ちなみに濃厚なにおいの正体は、わたしの痛めた肩に貼った湿布であった、おそまつさま。
僕は一桁の年齢の頃は,いつも自分を遠くから眺めているような感覚があった。過去の記憶は人一倍がっつりと残っているようで,例えば1歳半で祖母の家に預けられていた時何を話したかとか何を買ってもらったかとか,箸が満足に使えるようになったのは3歳の頃だとか,それはもうつぶさに覚えている。けれども主観的な記憶でなく,自分という名のシルエットがさまざまな言動をするのを,一歩引いたところから,まるで映像のようにとらえていた。多分,まだ自我が薄かった,とかそんなところかと思う。というわけで感情の記憶がほとんど無いので,遠い過去を振り返っても決して嫌な思いをしない。過去の世界で陶酔するのをひとつの喜びとしている僕にとっては,非常に好都合なの,です。ところがところが今ときたら,「こうしたいのにできない」だとか,感情本意の地点で空回ることがいかに多いか。まるで性能の悪い殻に閉じ込められているような感覚というか,ロボに乗り込んだは良いが操縦の仕方がわからないというか,精神と肉体が伴っていないというか――自分の姿が,見えない。大人になるっていいことばかりじゃないかもよ?? 発達というよりむしろ増長してしまって,自分でも手に終えなくなるような自分が,少なからず顔を出すんだぜ。と酔っぱらって少年少女に絡みたい,そんな冬。なんだかんだで自分が大好き――そんな,幸せな僕。

August 12, 2008

/反省はするけど後悔はしません。/
 などと豪語しつづける割に,はて?? と我にかえることがあるのです。
 反省も後悔も,記憶点にかわりないのだから,本当は大差無いのかも,と。
 むしろ反省するというのはたいへん前向きでよろしいんだけれども,よりクスリとして有効なのは実は後悔のほうだと思います(僕にとっては)。でも避ける,苦いから。
 反省は前進する契機であり,その先は幾とおり。変化する方向へ働くがゆえに,反省したということは忘れやすい。でも後悔はすこし違う。苦いから。
 まあ,反省も後悔も必要というか必然ですので,文字で考えたって仕方ありませんか。
(なんて言い訳まがいの自己完結するからいけないんだなあ。まあいいや。)
 ありがとうございました。
「自分のこと,だいたい分かってきて。自分のこと,赦している。だけど,ならばこれからどうするかというところで,世界は時を止めたまま。ぼくという集合体ぼく,の有能な統率者が未だ現れない。誰かに道を示して欲しい――」
「ああ,なるほど。頭で考えすぎてしまうんだね??」
「……そうですね」
 そのとき僕は,"身も蓋もない"とはこのことだと思ったのでした。
 医者というのはなにも特別な生き物ではなく,ただ一個の人間で。きっとその人なりに一生懸命,答えを出してくれているのだと,今になって気づいたりします。ありがとう。
 自分が本当は他人と関わってはいけない人間だということを、ひとと関わることで幸福を感じることも、ひとに幸福を与えることも決してできない人間だということを、何度も何度も、思い出しては忘れ、忘れては思い出す。
 「すべてに見放されることで、僕に僕の愛が約束される」――この言葉が歌の詞のように、病のように僕を満たしていくことを、僕は本当は、いつも望んでいた。

 今よりもっともっと若かりし頃のこと。
 僕はボーカルの女の子と組んで、ピアノを弾いていたことがあった。あの頃は後先考える余裕もなく忙しくて、いつもせっぱ詰まっていて、楽しかった。
 僕は元から、音楽を一生懸命にやるなんて馬鹿げていると思うような人間で、その時も、今のところ頼めそうなのはあなたしかいないのです、どうかどうかお願いします、担当の人が見つかるまででいいから、と麻矢本人に拝まれてしぶしぶ引き受けただけだった。
 ところが。ひとりではなくフタリで音楽をやるというのは、なんとスリリングで楽しいことか。僕は緊張と昂揚の心地良さへ急速にのめりこみ、その感覚の虜になった。
 しだいに麻矢と一緒に音楽をやることが、僕の生活の中心になった。
 が、実際の中心は音楽をやることではなく、「麻矢のこと」だという事実に、あの頃僕は気づいていなかった。麻矢が仕事として歌を歌えるようになったらいつでも辞められるようなバイトをいくつか掛け持ちし、麻矢の都合に沿って日に二度だろうとスタジオを予約し、寝るためだけに借りた粗末な部屋では寝る間も惜しみ、麻矢の歌を録音したテープに合わせて楽器を練習した。

 あるとき麻矢が、真新しいスーツ姿でスタジオに現れた。聞けば、会社巡りをしている、ということだった。残念そうに、「ママがね、ちゃんと就職するんだろうね、って心配そうに言うの」といつもの調子で笑った。
 そういうことなら仕方がないなと思った。会社勤めを始める四月の少し前に、最後のライブをやろう、と約束して、その日も予定通り練習を終えた。不満はなかった。当然だ。
 気づいてはいないにしろその頃の生活の中心は麻矢であり、すべては麻矢の決定によってしか動かないようになっていたのだから。「麻矢が仕事として歌を歌えるようになったら…」というのも僕が勝手な思いこみで張った、麻矢のための予防線にすぎなかったのだから。

 麻矢のための日々は麻矢のために終結する、ただそれだけのはずだった。
 でもそれよりも早く、僕の中であの歌が鳴りはじめた。

 ――早く、早くこっちへ来い。僕がお前に、幸福を約束してやるから。僕だけがお前に幸福を与えることができるのだから。お前の幸福は僕なのだから。さあすべてに見放されろ、見放されろ、見放して、見放されろ。
 麻矢のテープの代わりに、毎晩毎晩、毎時間毎時間、毎分毎分、いつでもいつでも、僕が僕に、言うのだった。僕の言葉は僕に、どんどん染みこんでいった。一刻も早く、僕を満たして欲しくなった。
 もうすべてを投げ出す他はなかった。麻矢を、麻矢を、麻矢を。

「裏切り女、ライブなんか知るか、ひとりで歌え」
 そうして僕は確かに、僕による僕のための幸福へたどり着いた。麻矢に告げたのもまた本心だったかもしれないけれど。あの言葉で麻矢がどれほど傷ついたか、考えると胸が痛むけれど。僕は本当に幸福だよ。

May 31, 2008

 命を捨ててもいいほどに、あなたを愛してしまいました。本当です。あなたに見放されるくらいなら、全部おしまいにしてしまったって構いません。あなただけなのです、私が私であることを許してくれるのは。
 私は本当はただの卑屈なアヒルなのです。それなのに私はあなたに出会うまで一度だって、ただの卑屈なアヒルであることを許されたことがなかったのです。強くあれ、優しくあれ、賢くあれ! そう諭され、諭しながら生きてまいりました。比類なきアヒルであれ。そう周囲に望まれているのか、自分が望んでいるのか判らなくなる頃には、私は、私が聡明で柔和な白鳥だと錯覚するようになったのです。
 その幻想を打ち砕いたのは他でもない、あなたでした。あなたは私に、私が救いようのない無能で、ねじ曲がった誇りの殻の中はひたすらの空虚であることを、見せつけたのです。辛かった。たとえ幻想であっても、それは確実にこれまでの私を私たらしめていたのですから。
 私を一気に絶望の底へ突き落とした、あなた。私はこんなに醜い姿をさらして生き続けることはできないと思いました。罰を受ける前に、消えてしまうしかないと。だって私は、ただの卑屈なアヒルなのですから。
 でもあなたは、それでいいんだと言ってくれました。あの時私は、無意識のうちに諦めていた、とてもとても贅沢な願いが叶えられたと感じました。私はただの卑屈なアヒル。それでいいんだ、大丈夫、なにも心配はいらない。そうやって私のすべてを許してくれるのは、あなただけ。
 だから、私はもうあなたの許し以外なにも望みません。本当に本当にあなたを愛しています。
 もしあなたが私を許せなくなった時には。そのときには――。

 ...みにくいアヒルのジコアイズム...

May 29, 2008

 直視しつづけてはいけない! 闇の影は真の恐怖を知っている。
 狂信者たちがざら、ざらと不快な声で唱える。
「お前は試されるだろう。ただひとり孤独な夜に包まれ、隠された真実を知るがいい。虚ろよりも恐ろしい真実を見るがいい。そのときお前はオマエを、受け入れるか?」

 迫りくる渇いた黒が。待ち伏せる黒い淀みが。黒、黒、黒に魅入られた僕を誘う。
 ひたひたと ほらもうそこまで やすらぎ ガ

「実に危険。お前はいずれ……」
 あの熱狂的な夜の手先が、警告を発している、ざら、ざら。
 傍観者どもの目、目、目、ヤツラは見ている。僕を見ている。
 それでも黒い浸食は止まず、ひたひたと ほらもうそこまで やすらギ ガ

《あの奇妙な夢はもはや夢ではない》

「太陽は葬られた」 不吉な黒雲たちの嘲笑に、ヤツラはただ祈りを捧げる、ざら、ざら。
 祈りだって? 恐怖に裏打ちされたノイズが?
 馬鹿なやつら! それはただ不快な悲鳴というざらざら。

 僕はただひとり静寂の腕に抱かれ、かつて世の終幕を唱えて闇に葬られた哀れな予言者に思いを馳せ、そして ほらもう ここに やすラギ ガ ヒタ ヒタ

May 24, 2008

ヤツラは絶対に喜ばないからヤメテおけ。
でないと手遅れになる
ボクはさァ トクベツなんだから
こういうネ ねじ曲がった認識をボクにうえつけたのはオマエナンだかラ

ヤメタヤメたやメた
ぼくは君さえ喜んでくれたらなにもいらない。
花をそえてくれそうな人タチには声をかけとこう
君の喜びに花を、そえてもらおう
本当ははじまりから きみとぼくの世界だった
さびしくてもカエろウ?カえろう!
ボクラ限りなクヒトツ限りなくひと つ

May 23, 2008

ぼくはたえられないんだ
以前はほんの少し手を伸ばしさえすれば届いたものが
今や遠く遠くにあると
なんの予告もなく見せつけられるのが
親愛なるアルゲリッチ ぼくはもう絶望するだけじゃ足りないよ

May 22, 2008

 その存在を関知しただけで感染する恐ろしい病に冒され、すぐにでも病院に行かなければならないのにママもパパも見ぬふり。すごく不安なのに僕は、にこにこ笑って動じていないふりをしなければならない。
 そういう不快な夢をみて、毎夜目を覚ます。
 いい子でいることをやめたはずなのにやめられない、彼らにとって僕は、もう今ではただの黒々したカビとか、落とそうとすればするほど滲んでゆくシミとか、そんなものでしかないのに、まだ良い子のふりをする――今の自分そのものを表していて、気が滅入る。何のために無意識下においても自虐するのか。それは僕にとって必要なのか。もういっそまた狂ってなにもわからなくなってしまうか、絶えず幻想に浸って嘘だろうとシアワセを噛みしめつづけるか――なんて本当のところ願っている愚かな僕には、分相応な夢なのだろうけれど。
 近頃は昼間も、うとうとするようになった。そのたびまた同じような夢をみる。
 小手先だけの器用さで優越感に浸る僕を、ときどきあいつが見ている。そんな方法は20年前からすでに通じなくなっていることに気づいていながら未だそこから抜け出せない僕を見て、あいつは笑っている。

May 21, 2008

創造的なごまかし
ライブは必ずしも自由ではない
ほんとのこと伝えるためでさえ演じなければいけない
だったら生まれてから消えるまで傍観者である僕をだれか認めてくれたら
人は人の価値観の中で自由なだけだと聞かされてホントの自由の意味を知ってしまった僕を

 ――いつからだろう、わたしの涙がこっちの目からしか流れなくなったのは。
 丸い粒がぽろり、ぽろり、左の目から零れる。
 昨日は泣いた。おとといも泣いた。
 麻矢はふた桁の歳になる頃には、目を腫らさずに泣く方法を覚えた。何のことはない。決して涙をぬぐわず、零れるに任せておけばいいだけだ。
 劇的にしゃくりあげて泣くようなことも、もうなくなった。
 あれほど恐れていたぜつぼうの底は思ったより空虚で、穏やかだった。

 深夜、たまたまつけたラジオで、とある大女優が、とある街の思い出話をしているのを聴いた。
「あの街は本当に面白いのです、会う人会う人が輝いていて! あの街に集まる人たちはみんな、それぞれの目的を持っているのでしょうね! もちろん私もそのひとりだった――」
 今日も泣くことにした。麻矢もかつてはその街の住人であったからだ。

 ラジオを切る。思ったより空虚で、穏やかで、静かだ。ぜつぼうの底では、涙が頬骨を滑って、ぱたぱたとタオルケットに染みこんでゆく音だけ。じぶんの呼吸も聞こえない。
 本当に穏やかだ。丸い粒がぽろり、ぽろり、左の目から零れているだけ。

 ――右半分の脳が感情を司るって聞いたけれど、きっと嘘ね。私は左で泣いているもの。それとももう、悲しいから泣いているのでは、ないのかしら。

 そんなことを考える。
 丸い粒がぽろり、ぽろり、左の目から零れつづける。
 ほんとうに穏やかだ。

April 28, 2008

 お元気ですか。
 守りたいものと捨て難いものは、案外近い位置にあるから、強みにも弱みにもなったり。あったらいいなと思うものというのは、本当は無くてもいいものなんだけれど、無いとなんだかなぁだったり。僕はそういう、ものごとは裏か表か白か黒かだけでは判断できないんだよネ、といった寛容さの産物であるモヤモヤと日々戦っております。許すだけではカオスへまっしぐらではないのか、と不安にすらなります。
 捨てきれてないんだなあと思います。

 一利を興すのは一害を除くに如かず、とか。手放すことで得るものがあることを忘れてはいけない、とか。
 確かに、自分に不必要なものを捨てる勇気のある人はカッコイイ、と思う。
 僕も、要らないものは捨ててきました。いろいろ。
 だから僕はいま結構カッコイイ、はずなのだけど。とんでもない。捨てたつもりが実はただ諦めただけで、その割には未練タラタラだということに、気づいてました、ええ。

 ところで「諦める」に関して面白いはなしがございます。
 別の字をあてると「明らめる」で、『あきらかにする』という意味なんだそうで。
【あきらめる】 エゴや見栄による判断をやめ、自然の流れに乗ることで、ものごとを明るく照らし、その本質を知る。
 無理矢理混ぜるとそんなところでしょうか。
 たまには壮大な言い訳をしましょう? もう大人なんだから。

 で、僕がこれまで何を捨ててきたのかと考えると、判断するという選択肢を――ということなのかなあと思います。それが果たして自分にとって不必要だったのか「あきらめ」きれないうちは、まだしばらくモヤモヤと戦うことになりそうです。
 ではお元気で。

(二〇〇八年四月二十七日記念)

March 17, 2008

 ねえ、きいて。
 神様はあたしたちの胸の毛を、綺麗な赤に染めようとしたのだけれど、
 小さな鳥は、ほかにもたくさん。絵の具が足りなかったのですって。
 神様は、こう提案してくださったの。
 そうだ、野ばらのしげみに巣をつくりなさい。
 赤いはなびらが、おまえの胸の毛を、あかく染めてくれるかもしれないから。

 母は笑う。

 ねえ、きいて。
 おまえたちのおじいさんこまどりがまだ若いとき、
 やっぱりめすの小鳥に会ったのよ。
 そして、とっても好きになったの。
 その鳥のことを思うと、ひとりでに胸があつくなって、
 おじいさんはそのとき思ったのですって。
 胸がこんなにあつくなっては、まもなくこげて、あかくなるだろう、って。

 母は笑う。

 ねえ、きいて。
 おまえたちのおばあさまは、歌姫だったのよ。
 お歌が好きで、好きで、いつもうたっていたの。
 うたって、うたって、お日さまが沈みかけるまで。
 のども、胸もふくれあがって、からだがふわりと宙に浮くまで、うたったの。
 そのとき、思ったのですって。
 胸があついわ。夕日であかく、染まってしまいそう。

 母は笑う。

 ねえ、きいて。
 おまえたちのおとうさんは、つよい鳥だったのよ。
 戦いに勝つと、うれしくて、誇らしいおもいで、胸がもえたつようになるんですって。
 あるとき、ほかの鳥と、あらそいごとになったの。
 あたしたちを守るためにたたかって、その戦いに、勝ったの。
 あのときも、あつい思いが胸をこがすようだって、
 うっすら、笑っていたっけ。
 するどい野ばらのとげで傷ついた胸は、もう、つめたかったけれど、
 もえるように赤くてね
 とてもきれいだったわ

 かあさん、かあさん、泣かないで、泣かないで。
「俺の足元に這いつくばれ!」
 暖炉を這いのぼる赤黒い炎のような声音に、一瞬ほっとしかける。自分の言葉の綻びをとらえては陰鬱なへりくつを捏ねる学生たちを諭す、掠れて神経質なそれしか、もう持ち合わせていないものだと思っていた。
 
 うかつにも、魔物を家へ連れ込んでしまった。
 街はずれで見かけた時は、ただの薄汚い尨犬だったのだ。卑屈で落ち着きのない目をした、だがこちらが少しでも優しげな態度を示したとたん尻尾を振り、図に乗ってまとわりついてくる、確かに犬らしい犬だったのだ。
 それを少しでも可愛いと思った己は、やはり老いたのだなと、絶望さえ干上がったカサカサした声で笑いながら、ファウストは犬をこの狭い部屋まで伴ってきた。名ばかりの弟子たちより、よほど良い。彼らは捨てられた獣のように油断無い光をギラつかせているくせに、中庸の絶対性を説く老学者の姿など、眼中にはないのだ。
「ただの脅しではないぞ。神聖な炎で貴様を焼いてやろうか!」
 酒に煽られたような昂揚に、酔いしれる。まさか浅い眠りの合間を埋めるため戯れに手を出した、にわか魔術なとが役に立つとは――。
 光る牙を剥く犬だったものは、膨れあがり、臭い霧となって高い丸天井いっぱいに充満し、やがて、逃げられないとわかると右往左往しながら降りてきて、暖炉の後ろに逃げ込んだ。
 霧がすっかり晴れるとともに、悪魔メフィストーフェレスは悪びれた様子もなく、あろうことか長衣の遍歴学生の姿でファウストの前に現れた。
「やれやれ、何をそんなに騒ぐのです。私めに何か御用でも?」
 急激に、奇妙な熱が冷めてゆく。いっそ、さっきまでの昂揚も、この悪魔のもたらした企みの一環だったと思いたくなるような、期待はずれの温度だった。
「尨犬と、匂いは大して変わらんな。それに遍歴学生とは、下らぬ洒落を」
「やれやれ。大先生には一汗かかされましたよ」難問にぶち当たった学生らしく、考え込むそぶりをしながら、悪魔はうっとりと、下卑た笑いに唇をゆがめている。「なぜかって? そこの敷居に掲げてある護符の星形がね、ほら、よく御覧になってくださいよ、一か所、線がずれておりますでしょう? それでは困るのです、悪魔はこの部屋に入ったは良いが、出ることができない。私めは今まさしく、大先生の虜だ」
(つづく?)

December 16, 2007

 幸福体質。本も映画も人間も音楽も、なにか1つでも”イイ!”と感じる点があれば、それ全体がイイと本気で思い込むことができる。だから常に最高のものに囲まれ、たいへん幸せである。
 つまりただ一点のお気に入り要素があれば、残りは全く気にならないというか、その一点から派生、再構築した分で世界を補完できる。
 おそらく自分外の本質など、自分にとってはどうでもいい。
 それを近しい人々に見抜かれてしまったらと思うと、少し怖い。
 そんな人間らしい感情が自分の本質であるかもしれないというのは、他の誇大妄想や見栄で覆い隠している。幸福体質による産物は本質を凌駕するか――?

(参考[本質] 存在するもののあり方を決定づける本来の性質。根本の性質。)
 ふうん、麻矢ちゃんて、マキのこともそういうふうに見てるの?
 君に聞かれてとっさに、「違うの、例えばね、まきさんになら抱かれてもいいなって思ってる。だれでもいいってわけじゃないんだから」と答えた。
 下品な話をはやく終わらせたくて考えたデタラメだったんだけど、何年も経ってから、その時の自分の言葉を思い出しては、苦しくなった。
 本当よ。会いたいって理由だけじゃ会いに行けないくらい、どきどきして。
 そうこうするうち、あたし、あの街を出ることになったでしょ。もしかしたら、もう最後かもしれないと思ったら、勇気が出てね。うん、番号、覚えてた。

 まきさんは、すぐ電話に出た。以前はいつも、音楽や人の声で騒がしいところからピーンと響いてた声が、まったくの無音の中から、おし殺したように静かに流れてきた。「いいよ、うちにいるから、おいで。お酒もどうぞ。授乳中だから、私は飲まないけど」
 缶ビール二本と、安っぽいおつまみを何袋も買って、電車に乗って、あのお城みたいなマンションに向かった。

 まきさんは少しふっくらしていて、化粧っ気もなくて、短めにした黒髪がぺたんとしていた。とたんに、以前の派手な化粧と髪型のまきさんを、思い出せなくなった。
 あたしはリビングでなくベッドルームに招かれた。そういえばあの部屋には初めて入ったんだっけ。
 抱いてみる? と言って、まきさんは大事そうに布でくるまれた赤ちゃんを、あたしに差し出した。子供が大嫌いなことをまきさんには話していなくて、本当によかったと思った。初めて赤ん坊を抱いた。重くて重くて、びっくりした。
 買ってきたおつまみを時々つまむだけで、あとは赤ちゃんにかかりきりなまきさんと、言葉を交わす。まきさんの声は赤ちゃんに話すときも、あたしに話すときも、同じように優しくて、柔らかくて。でもあたしは、厳しいことをたくさん言われていた頃のように、言葉を選んで、まきさんばかり見ていた。しまいに居づらくなって、ビール二本をむりやり空けると、「そういえば猫は元気?」といって寝室を出た。

 猫は薄暗いリビングの隅で、ぎゅっと丸くなっていた。以前はあたしたちがお稽古していたり、楽しくご飯を食べていたりして放っておかれると、ヤキモチ焼いて飛びかかってきたのに。ひょっとしてまたふて腐れているのかなと思って、すこし笑ってしまった。もう、きみにならひっかかれてもいいやという気分で遠慮なく触って、起きてもらった。
 猫と遊んでいるうち、ソファーで眠ってしまった。一度目が覚めたとき、猫が足下に寝転がって、あたしのジーンズで、がりがりがりがり、爪を研いでいた。買ったばかりなんだけどな、まあいいやと思って、また眠った。

 まきさんに起こされたときは、もうリビングは真っ暗だった。
「ごめんね、私も寝ちゃってた」
 まきさんと、赤ちゃんと、あたしと、三人でごはんを食べに行った。中華料理屋さん。お洒落なカフェばかりに連れて行ってもらってたから、なんだか新鮮だった。ひさしぶりにお腹いっぱい食べた。
 まきさんはお料理もそこそこに、赤ちゃんへお乳をやりはじめた。おっぱいを服の合わせ目から出すとき、あたしに向かってすこし恥じらうような笑みをした。
 そのとき、隣の席で食事していた初老の夫婦が声をかけてきた。
「あなたがたは、ごきょうだい?」
「とてもよく似てらっしゃるから――」

 なんだかとっても嬉しかったの。
 いま思い出してもどきどきするくらい、嬉しかった。
 まきさんのことはそんなふうに思ってるんだ。わかるかなあ。

December 14, 2007

 ごん、ごん、ごん、暖炉が燃える。
 ごん、ごん、ごん、麦を粉にする。
 ごん、ごん、ごん、水が湧いて、湧いて。
 ごん、ごん、ごん、白木の棒がうなる。
 ごん、ごん、ごん、いいおとがする。
 ごん、ごん、ごん、椅子を鳴らして。
 ごん、ごん、ごん、仲間が扉をたたいて。
 ごん、ごん、ごん、暖炉が燃える。

December 13, 2007

 終わらない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かも
 いこう、どこまでも、連れて行くから。少々無計画でも、導いていくから、ついてきて。そうすることが、僕のすべてだから、ついてきて。明日は、きっとまた、きみに起こされて、どこに行くの? 何をするの? って矢継ぎ早に聞かれて、慌てて考える。たとえば、今日は海の見える丘へいって、しっとりとふかふかのクローバーに腰をおろして、お腹が空いたらきみのつくった大きめのサンドイッチが食べたいな、とか。僕が小さい頃よく遊びに行った博物館の館長――今は海の見える別荘でおわらない休暇を満喫中――のところにお邪魔して、綺麗な石のコレクションを見せてもらおう、とか。うん、そうしよう、明日はそれで決まりだ。でも、もしきみが憂鬱な風に吹かれて、きょうなんて雨だったらよかったのに、なんて言うなら、僕は一日中、途中だった本を読んで聞かせてあげよう。ちょうど、童話集をおさらいちゅうだったから。子供じゃないんだから、って睨まれても、研究のためだよ、つきあってよ、なんて言い訳できるな。早く明日にならないかなあ、ああ、もう眠らないとね、おやすみ。

December 12, 2007

自己愛 自堕落 誇大妄想 悲哀 排他 自尊 孤独 散漫 見栄 自意識過剰 殻 不安 自棄 静 文字 言葉 自負 厭世 自己陶酔 自己欺瞞 体裁 悲観 恐怖 冷淡 青 狂 気儘 迷走 混乱 懐疑 倒錯 拒絶 夢 過去 追憶 勉学 知識 王 連想 乱立 脆弱 達観 寛容 無関心 無視 優柔 依存 停滞 固執 痼疾 妄執 妄信 耄碌 妄断 妄動 軽率 曇 愚鈍 死滅 荒涼 寂寥 虜 臆病 偏屈 石 十字架 断片 特別 魔法 孤高 物語 手先 怪演 雑多 超然 苛 裁断 困惑

December 11, 2007

二十歳の作文: わたしにとって脳の存在とは。

「芸術表現を学ぶ私にとって、脳はすべての表現の源であると考えています。
 楽譜の読み方、指の動かし方、音に強弱をつけるための力加減など、幼い頃から少しずつ獲得してきた基礎の技術は、やはりすべてが脳に記憶されていると思うからです。
 以前、イディオ・サバンと呼ばれる人たちの話を聞いて衝撃を受けたことがあります。私たちなら容易に取り出すことはできない、かすかな知覚の蓄積部分にアクセスし、再生できるのだそうです。だから、ピアノを弾いた経験がほとんど無いにもかかわらず、一度聴いただけの音楽を一音も外すことなく演奏できたり、何日も前に見た風景や動物をそっくり絵で描いたり、粘土で形作ったりできるといいます。
 一曲弾けるようになるために、何時間も、何日も楽譜と格闘しなければならない私にしてみれば、とうてい障害などとは呼べない、すばらしい才能ではないかと思えてなりません。
 その才能が、脳の一部が機能していないことで、人の能力が単純化された結果だとしたら。より複雑に働く私の脳が苦心して生み出す音楽は、サバンの人々の演奏する音楽と何が違うのでしょうか。私の音楽表現について、理想を交えながらではありますが考えてみたいと思います。

 私は脳を、表現のもととなる素材の詰まった引き出しであると感じています。これまで経験した様々な出来事、風景、音楽が、そっくりそのままの形ではありませんが一つ一つ感情を伴って記憶されているでしょう。
 楽譜を苦心して読みながら、指がピアノの鍵盤をたどれるようになると、ようやくその曲の姿が見え始めます。指が思い通りに動くようになるにはまだまだ時間がかかりますが、頭の中では、この曲が完璧に演奏されたらどのような感じになるかを想像することができます。そうしてつかんだ曲の姿を思い描きながら、次には引き出しの中の表現素材と照らし合わせていきます。記憶の中のどの感情に合うか、季節はいつか、何が起こったか、選択してつなぎ合わせていくのです。自分の中で音楽を表現するのは、物語を書くようなことに似ています。
 このように、心の中の引き出しに蓄積した多くの素材を、再現または再構築し、新しい音楽として表現してゆくのが私の音楽の作り方です。完成の見本などは無いジグソーパズルに取り組んでいるようなものですから、ときにまとまりに欠け、不完全な作品ができあがるかもしれません。しかし今のところはそれで仕方がないと考えています。
 これから何度でも『感動から表現』という繰り返しが起こるでしょう。自分の音楽に取り入れたいと強く思って記憶した素材は、今は引き出しの中で乱雑に積み重なっているかもしれませんが、いずれそれらに共通点を見つけ、分類してゆけたらと思います。引き出しの中の構造を知ったとき、私の目指す音楽は完成され、同時に私自身も完成されるのではないかと考えるからです」

「いやあ、机上の理想論というのは、実に清々しいねえ」
「でもね、身の程を知らないというのは、武器だなって思うの」
「防壁にはなるかなあ。ところでこれを書いた人はその後どうなったの?」
「"理想"と"理想的"の格差はすごいなあって、気づいたんだって」
「ああ、まだ夢の中なんだ」
「見習わなきゃね」
「またまた…」

December 10, 2007

 ギシギシと重い機械音をあげる金属の靴で、風化した石畳を踏みしだきながら前進する兵たち。いつ到達するともしれない理想の要塞は遙か遠くにそびえている。彼らは道を選択することを知らない。ただひたすら、前へ、前へ、前へ――。
 だが、兵士たちは立ちつくす。黒く煤けてしまった天までそびえる鉄の要塞は、内部まで錆びつき、絶えず褐色の砂塵をしたたらせている。一人、また一人と彼らは砂の中へくずおれていく。機械音がしだいに、やんでゆく。
 絶望の中である者が求めた。機械仕掛けの足枷ではなく、慈悲を、救済を!

 こぼれ落ちる錆の流れは金色の絹糸に変わってゆく。
 その流れは涙に。金色の少女の金色の涙に――。

December 09, 2007

「ぼくという集合体ぼく」有能な統率者求む。

 ちはやへ
2008.03.14
 思えば君が七歳の頃。ごめん、それ以前のことは覚えてない。たぶん怖い親父さんに怒られたとかでしょ、どうしてだか途方に暮れていた君と僕が巡り会ってからつい最近まで、僕自身どうしてよいやら判らなかったに違いあるまいよ。君を導いていこうと思ったことなどなかった、に違いない。いや、なかったよ。当然だろうが。僕だってまだほんのガキだったんだから。むしろ、君のわがままに振り回された思い出しか残ってないよ。
 ようやく、サポート役としてプロデューサーとして、ずっと君の側についていてやろうかなという決心がついた。いや、そんな大げさなものじゃないな。僕にはそういう役割が向いているのだということに、気づくべくして気づいた――これも大げさだな。
 でもなんで今までそのことに気がつかなかったのか。離れていたこともあったとはいえ、君がどこでどうしているかは把握していたのに。
 これは例えだけど、君をおおむね半歩、斜め後ろから常に傍観しているだけの僕が一体何者であるのか、誰も教えてくれなかったからか。いや、己の役割なんて本来自分で見つけるものだから、誰を責めるという問題でもないな。
 とはいえ二十年もかかったのか。結構長かったなって。
 きみは――うん、正直ちはやは、厄介な女だ。本当に厄介だ。目を離すと何をしでかすかわからん。インテリぶっていたかと思うと、次の日にはただのヒステリー女としか思えないようなことを言い出す。女とか言うと怒る。
 それに君は、おそらく僕のことを本当には愛してくれない。こんなこと言われても、どうせあっさり「うん」って答えるでしょ。尻ぬぐいに奔走する僕のことなど顧みようともしないでしょ。何より自分が好きだと、はっきり言っていたこともあるし、今もそう思ってるでしょ。
 僕は、どうなんだろう――おそらく僕も無理。そんなの今更、だ。まあ、愛す必要はない。ていうか愛ってなによ。もしかするとそうしようとして僕たちの関係が歪んだことも、過去にはあったかもしれないでしょ。
 ちはや、長い間、役立たずでごめんな。待たせて悪かった。これからはちゃんと、君を導いていくから。君も、できる限り僕の言うことは聞いてくれたまえよ。――なんか偉そうかな。でも今は本当にそんな風に思ってる。じゃあまた明日。
ようこそ妄想書房へ
◆こんにちはこんばんは。ここはdeluz&odagger他による何でも駄文倉庫です。いないとは思いますが小高の消息が知りたい方は下バナー「咎メントの鈴」から飛んでみてください。妄想書房では、妄想の断片をつないで、らのべまがいを組み立てる、そんな企画を企画してましたがいったんお休みし、かと思うとまた始めたりして要するによく分かりません。
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